戦後金融経済の回顧(H29.8.14)
―『世界日報』2017年8月14日号“Viewpoint”(小見出し加筆)
戦後日本の金融経済は、現在に至るまで、海外からのショックに伴う試練と挑戦の連続である。終戦記念日を前に、改めて振り返ってみよう。
【朝鮮動乱の勃発に救われた戦後の経済危機】
最初のショックは、48年12月の「経済安定9原則」の「指令」である。米国占領軍は本国政府の訓令を受け、収まらないハイパーインフレを一挙に収束すべく、1ドル=360円の為替相場設定と超均衡予算を命令してきた。ユーロ圏で苦しむ現在のギリシャのような縮小均衡の指令である。この時は瀬戸際で朝鮮動乱が勃発し、特需と輸出の飛躍的伸長による輸出→投資→消費の好循環で50~52年の3年連続2桁成長となり、国際収支の均衡と戦前水準の回復を達成し、「復興」が終わる。
【先進国に追い付いた高度成長のメカニズム】
その後日本は、固定平価制度の下、国際収支節度を忠実に守り、「ストップ・アンド・ゴー」政策を繰り返した。その結果、卸売物価は大幅変動を繰り返しながらも、ならしてみればほぼ安定した。これに対して欧米先進国、とくに国際収支制約のない米国は、クリーピングインフレを続けたので、物価で調整した「実質」為替相場は円安傾向を辿った。また日本は先進国の先端技術を導入し、低い賃金で同質の製品を安く作ることが出来た。日本製品の国際競争力は強く、日本経済は、輸出・投資主導型の年率10%の高度成長を15年間続け、70年頃迄に先進国の産業化の水準と所得の水準に追い付き、仲間入りを果たした。
【戦後第1回目の金融政策の大失敗――過剰流動性インフレ】
国際競争力の強い日本は、68年以降、経常収支が恒常的な黒字となったが、その反対側では、米国の経常収支が恒常的な赤字となり、71年8月15日の日本敗戦記念日に、米国はドルの金兌換を一方的に停止し、同年12月のスミソニアン会議で円は16・88%の切り上げを余儀なくされた。それでもドル売円買の投機は収まらず、73年2月、日本はドルの買支えを放棄し、円は1ドル=254円までフロート・アップした(360円から42%切り上げ)。
戦後第2のショックを受け、日本は円切り上げのデフレ効果を過度に心配し、72年初から景気が回復していたにも拘らず、73年4月まで超金融緩和と大型財政の刺激を続けた。このためインフレが高進し、73年秋の「第1次石油ショック」でとどめを刺され、「狂乱物価」となる。
【「強い国」日本の誕生】
この大失敗のあと、75~84年の10年間に、日本経済は再び輝きを取り戻した。各国は石油ショック後のトリレンマ(経常収支赤字・インフレ・不況)に悩んだが、日本は輸入インフレの国産インフレ化を防ぐことに集中し、国内物価安定の下で経常収支赤字と不況を克服した。トリレンマを脱した日本は「強い国」と呼ばれ、G5諸国中最高の成長率となった。
【「国際政策協調」が引き起こした戦後2回目の金融政策大失敗】
そこに戦後3回目のショックが襲ってきた。85年9月のプラザ合意と87年2月のルーブル合意である。米国の国際収支赤字対策を助けるため、日欧の中央銀行はドル売り協調介入でドル安を誘導し、その後はドル安が行き過ぎないよう協調利下げでドルを支えようという「国際政策協調」である。日本国内の景気は87年初から上昇し、資産バブルとインフレが発生していたにも拘らず、国際金融秩序を守るため、日本は利上げすべきではないという政治的圧力が米国から掛り続け、日本は89年5月まで2・5%の超低金利を据え置き、地価と株価の資産バブルを膨張させた。
【バブル崩壊の後始末を間違えて「失われた15年」に陥る】
ドル相場がようやく底入れした89年5月から90年8月まで、日本は5回利上げを実施し、株のバブルは90年初、不動産のバブルは91年に入って破裂した。地価・株価の暴落によって、企業や銀行のバランスシートでは資産側が減価し、債務超過傾向から投資や貸出が委縮するバランスシート・リセッションとなった。94~96年度には景気回復が芽生えたが、政府は財政再建を最優先し、13兆円の赤字削減を企画した97年度の超緊縮予算を執行した。このため97~98年度には、都市銀行、長期信用銀行、四大証券会社の一部を含む大型金融倒産を引き金に金融恐慌が始まり、日本経済は12年まで、低成長とデフレの「失われた15年」となった。
【世界初の「非伝統的」金融政策を採用】
この間日本銀行は、ゼロ金利政策や量的緩和(QE)など世界初の「非伝統的」金融政策を実施し、05~07年には消費者物価の前年比がプラスとなり、「非伝統的」金融政策からの「出口政策」を実施した。
【リーマン・ショックに伴う不況】
しかし不幸にして戦後第4のショック、08年のリーマン・ショックを引き金とする米欧の金融危機と世界同時不況が襲ってきた。米欧先進国の中央銀行は、一斉に「非伝統的」金融政策を採用し、ドル・ユーロ安=円高となり、金融危機のない日本も不況となった。
【「出口政策」が次の課題】
日本は13年から「異次元」金融緩和によって、米欧よりも大胆な「非伝統的」金融政策に踏み込み、円高・株安是正に一定の成果を挙げて景気を回復させた。世界全体の景気が上向いてきた現在、日米欧中央銀行は量的緩和で膨張した保有資産を圧縮し、長期金利上昇時の中央銀行と金融システムの損失リスクを小さくしておくなど、「非伝統的」金融政策からの「出口政策」が、次の課題となっている。(詳しくは鈴木淑夫著『試練と挑戦の戦後金融経済史』(岩波書店、2016)参照)