最近の財政政策積極活用論の危険性(H29.6.15)
―『世界日報』2017年6月15日号“Viewpoint”(小見出し加筆)
【財政政策積極活用論が台頭】
2008年のリーマン・ショックに伴う世界の金融危機と同時不況以来、日米欧の先進国は長引くデフレに対処して量的金融緩和(QE)などの「非伝統的金融政策」を実施してきたが、9年後の今日も、低成長と低インフレから抜け出せないでいる。そうした中で、最近金融政策に代わって財政政策を主役に据えてはどうかという政策論が出てきた。
沈滞した経済を活性化するために、金融政策と財政政策とどちらの効果が大きいかという問題は、世界大恐慌(1929~33年)以来今日までの90年近くの間に、繰り返し議論されてきた経済学上のテーマである。
【ケインズ政策の時代】
よく知られているように、J・M・ケインズは、1936年に出版された『雇用、利子および貨幣の一般理論』の中で、金融緩和で十分な流動性を供給し、金利をゼロまで下げても、経済を活性化するのに必要な投資が起きてこないような「流動性の罠」に陥った時は、拡張的な財政政策(財政支出拡大、減税)が経済を活性化する上で有効だと述べた。以後60年代頃までは、「ケインズ政策」という名の財政政策が、景気の刺激にも抑制にも有効だという理論が支配し、主要国の景気対策として財政政策が盛んに採用された。
【ポリシー・ミックスの時代】
しかし、その後、このケインズ理論に対して新古典派理論が台頭してくる。この理論モデルでは、金融政策が一定であれば、財政拡張政策による総需要の拡大は金融を逼迫させ、金利上昇を招き、国内支出の抑制と為替相場上昇による輸出の抑制・輸入の促進を招くので、景気は下押しされる。従って、金融緩和政策を同時に実施しない限り、財政拡張政策はあまり有効ではないという結論になる。
この結果、主要国の政策当局は、有効な景気対策として、財政政策と金融政策をどのように組み合わせるかに関心が向かった。いわゆる「ポリシー・ミックス」論である。
【合理的期待論の登場】
その後経済学は、人々の将来の予想、すなわち「期待」の役割に注目するようになる。期待が強気化すれば、現在の経済動向は活発化するし、弱気化すれば不活発になる。
この「期待の形成」は、当初は直近の経験が期待の基礎になるという「適合的期待」(バックワード・ルッキングな期待形成)の理論が一般的であった。しかし、人々は将来を合理的に予測して期待を形成するはずだという「合理的期待」仮説(フォーワード・ルッキングな期待形成)の理論が出てくるに及んで、話は変わっってきた。財政拡張政策を行っても、それに伴う財政赤字拡大を埋めるため、将来は同額の増税が行われるという「合理的期待」を人々が抱けば、将来の増税に備えて人々は貯蓄をするはずなので、財政政策の拡張効果は相殺されて拡大効果はないというのである。
【クリストファー・シムズの財政政策積極活用論】
人々が全てこのような「合理的期待」に基づいて行動しているとは思えないが、ある程度はこのような合理的期待によって拡張効果が相殺されることは、否めないであろう。ところが最近、このような効果の相殺を無くして、財政拡張政策の効果を高めることができると説く学者が現れた。ノーベル経済学賞受賞者のクリストファー・シムズ米プリンストン大学教授である。財政拡張政策によって2%超の物価上昇を実現すれば、政府債務残高の「実質」価値が下がるので、将来増税する必要性はなくなる。このことを人々が期待の中に織り込めば、将来の増税に備える人々の貯蓄行動によって財政政策の拡張効果が相殺されることはなくなるという。内閣官房参与の浜田宏一米エール大学名誉教授は、このシムズ論文を読んで「目からウロコが落ちた」と書いている。
【シムズの政策提言は危険】
経済学者が理論モデルの世界で議論する限りは、この通りである。しかし、国民の立場に立って実際の経済政策を策定する立場から見ると、これ程危険な政策はないように思われる。
【インフレの弊害に無頓着】
第一に問題なのは、2%超のインフレを起こして政府債務残高の「実質」価値を減らすという考え方である。これはインフレによって債権者から債務者に所得が移転することを利用するもので、債務者たる政府は実質債務残高が減価して得をし、債権者たる国民は所得と金融資産の実質値が減価して損をする。しかも、累進所得税制の下では、インフレで自動的に税率が上がる。これらは国会の議決を経ないで国民に課税するのと同じだ。その上、貴金属、不動産などを購入してインフレ・ヘッジのできる高所得者よりも、それが出来ない低所得者に税負担が偏るという意味で、不公平な逆進的大衆課税である。庶民の生活を圧迫するインフレを起こすことの問題点に、まったく無頓着な政策提言と言えよう。
【財政規律弛緩のリスク】
第二は、これによって「財政規律」が弛緩することである。日本銀行が政府債務(国債)を大量に買い上げてマネタリーベースを供給し、2%超のインフレを起こして政府の実質的な債務償還負担を減らせば、政府の財政規律が緩むことは火を見るよりも明らかであろう。