戦後70年記念インタビュー(その2)
三重苦克服した森永・前川コンビ
(H27.8.12)
―『世界日報』2015年8月12日号―床井部長によるインタビュー

 18年間の高度成長の時代は、欧米先進国の産業化の水準に追い付き、追い越せが目標です。そのために、輸出最優先で外貨を稼ぎ、技術導入と原材料を輸入する。技術導入したら、最先端の技術を持った設備をつくる。輸出と設備投資を最優先に、欧米の産業化の水準に追い付くということを官民挙げてやった。それでとうとう、重化学工業化の比率や鉄鋼、セメントなど基礎的な資材の生産量からみても、欧米の産業化の水準に追い付く。
 追い付いたら何が起きたか。二つのことが起きた。一つは、国際収支の恒常的な黒字。これは米国側から言えば、恒常的な国際収支の赤字、ドルの垂れ流し状態です。当時、米ドルは金と交換のできる金為替だったから、あれよ、あれよという間に米国が持つ金が減って、各国が兌換請求すれば米国がお手上げになるような状態になってしまう。それで、71年8月のニクソン・ショックです。ドルと金の交換は止め、ブレトンウッズ体制の根幹を投げ出した。12月のスミソニアン会議で、日本は308円の円高を押し付けられる。16・88%の円切り上げです。
 最初、これだけ円が切り上げられたら、日本経済は輸出できないで壊滅だと言わたが、日本の産業力はまだ余力があり、その後も黒字が増えて行く。翌72年は金融大緩和で、田中角栄さんが「日本列島改造論」を打ち出し、72年の補正予算と73年の本予算で財政の大盤振る舞いをする。
 日本経済は16・88%の円切り上げを跳ね飛ばして立ち直るが、物価はじりじりと上がり始めたところに、財政は大盤振る舞いです。しかし、金融を引き締めしたらいかんぞと田中角栄さんに言われ、過剰流動性が形成されるわけです。過剰流動性インフレーションが72年の終り頃から始まり、73年にはどんどん進む。そこに、第一次石油ショックです。ただでさえ大インフレのところに、石油の値段が4倍に上がり、高度成長はとどめを刺される。強烈な引き締めを行ったが、それでも物価上昇が収まるまでに2年ぐらいかかった。
 ただ、これで高度成長は終わったけど、日本経済は一巻の終りにはならなかった。75年から85年の10年間の経済運営が非常にうまくいったからです。石油ショックの結果、先進国はトリレンマに襲われる。トリレンマというのは、インフレと、エネルギーコスト上昇の収益圧迫に伴う不況、そして国際収支の赤字です。この時に、日本は非常に上手な経済運営をやった。
 このトリレンマは相互に矛盾している。不況だからと金融緩和するとインフレが進み、国際収支は赤字が拡大する。逆にインフレを抑え国際収支の赤字を抑えようとすると不況が激しくなる。それで、日本はどうしたか。あの時の日銀総裁の森永さんと副総裁の前川さんのコンビが偉かったと思うのは、政策に順番を付け、まず不況は我慢しようとインフレを抑えて国際収支の赤字を克服するという引き締め策を取ったことです。すると、不況も確かに少し深まったが、物価は落ちつき、国際収支は改善していく。国際収支が改善したら、引き締めの手を緩め、あとはイケイケどんどんで、輸出が伸びて回復し、結果、日本はトリレンマを克服してしまう。同様にして、西ドイツも米国もトリレンマから抜け出す。トリレンマから抜け出した日本は、75年から85年まで10年間、先進国の中で一番高い5%前後の成長率だった。これが、日本経済が輝いた最後の時期だった。
 ところが、日本が輝き過ぎているために、米国が音を上げてしまう。85年9月のプラザ合意です。日本とドイツを中心とするヨーロッパの、ドルに対する通貨切り上げを誘導するため、ドル売り・自国通貨買いの協調介入と、米国高の金利差縮小が行われた。1年半後の87年2月のルーブル合意は、弾みの付いたドルの下落を止めるための政策協調です。
 ただ、ドルの下落を止めるルーブル合意は、日本とドイツにとっては非常につらい。当時、プラザ合意による円の切り上げで、日本経済は少しフラフラとしたが立ち直り物価も上がってきて、ぼちぼち金利を上げなきゃいけないという時期にきていた。ドイツも同じです。ところが、金利を上げるとドルが下落してしまうから、国際会議のたびに米国から金利を上げるなと言われるからです。それでも日本銀行は87年暮れに公定歩合を引き上げるべく、その地ならしで市場金利の高め誘導を始めた。そこに、起ったのがブラックマンデーです。