戦後70年記念インタビュー(その1)
大インフレ下の産業復興
(H27.8.11)
―『世界日報』2015年8月11日号―床井部長によるインタビュー

 ――日本経済は戦後の荒廃から立ち直り、高度成長を実現後、二度の石油危機を経て安定成長後も為替の激変やバブルとその崩壊、リーマン・ショック、東日本大震災など様々な経験をした。戦後70年を迎えた率直な感想は。

鈴木 僕の専門である金融政策の面から戦後70年を振り返ると、まさに試練と挑戦の連続だった。まず復興期の1945年から55年までの10年間は本当に大変だった。生産能力が戦前のピークの半分に落ち、他方、復員兵への支払いや進駐軍の経費、それから、戦時中は物がなく皆が貯金や預金をしていたが、それが一斉に購買力として出てきたから需要が増えて、1年間で5倍、6倍というインフレが起きた。
 政策当局として、やらなければいけない大事なことが二つあった。産業復興で生産力を回復することと、インフレを止めて国民の生活を救うことです。ところが、この生産力回復とインフレ抑制は相反する課題で、金融面から見ればインフレ抑制は引き締め、復興は逆にカネの供給を増やす。こういう試練に直面し、果敢にチャレンジしていった。
 それで出てきたのが傾斜生産方式です。つまり、インフレ抑制でそんなにカネは出せないから、絞って大事なところにだけに復興資金をつける。最初は炭鉱と鉄鋼です。これらを軸に、できた鉄鋼や石炭を化学肥料や輸送、電力に回した。産業復興で年間10%を超えるほどの成長率が出ていたが、他方、需要の方は旺盛でインフレが収まらない。
 そこで米国は、占領軍の顧問としてドッジ氏を派遣し、ドッジラインを押し付けた。財政を均衡させろというわけです。今のギリシャに対する要求みたいに。当時、財政は大幅な赤字で、それに伴う国債を全部、日銀が引き受けていた。産業資金は復興金融金庫をつくり、そこから出ていたが、復興金融金庫の復金債も日銀が引き受けていた。財政赤字と日銀信用膨張の二つでインフレが起き、それで復興していたわけだが、それを止めろと。
 でも、その通りやれば大不況です。そこで、一万田日銀総裁はディスインフレ政策と言いながらディスデフレーション政策をする、つまり、財政は均衡にしたけど、強烈なデフレにならない程度に日銀信用を増やした。占領軍の顔を立て苦心惨憺した。しかし、ばれるわけです。
 ただ、そのころになると、占領軍は日本に対する方針を180度変える。最初は日本経済には生かさず殺さずで行こうしたが、冷戦が出てきて、日本国民が餓えてソ連式の左派的な傾向になっては大変だから、日本を本格的に復興させなきゃいけないと。
 そうした時に起きたのが朝鮮戦争です。これで、日本経済は救われた。それがなかったら、今のギリシャのようにひどいことになっていた。朝鮮戦争による特需が日本にとり景気刺激になり、外貨も大いに稼げ、原材料も輸入できるようになった。米国は朝鮮戦争を境に備蓄を始めたから、世界中から戦略物資を輸入し、それが刺激になって世界経済は大いに発展し始める。特需は1年で終わってしまうが、その頃になると、日本は輸出が伸び始め、また伸びる輸出を賄うために、設備投資が増え始める。すると今度は雇用が増える、賃金が上がる、で消費が増えてきた。朝鮮戦争があった50年からの4年間は特需ブーム、輸出ブーム、投資ブーム、消費ブームで日本は生産力が一気に上がり戦前水準を回復する。
 1㌦=360円の為替レートも占領軍の命令で決められたが、最初360円は日本にとり円高だった。占領軍は日米の卸売物価指数から購買力平価を計算して決めたが、日銀による卸売物価指数には公定価格だけでヤミ価格が入ってなかったからです。この円高相場での輸出は大変なことだったが、特需や輸出ブームで日本経済は大きくなっていく過程で、360円の円高相場に適応し戦前の生産水準を回復する。これが53年から55年ぐらいの頃で、さすがに国際収支は赤字、物価は上がってくるということで戦後初めての本格的金融引き締めをやった。それが戦後復興の終わりです。56年の経済白書に「もはや戦後ではない」という名文句が出てくる。ここから高度成長に入るわけです。