流動性の罠と異次元金融緩和―黒田日銀は「期待インフレ率上昇」に不安か、最近になって成長戦略を強調(H26.6.12)
―『世界日報』2014年6月12日号“Viewpoint”(小見出し加筆)

【ケインズの「流動性の罠」とは】
マクロ経済学を勉強したことのある人なら、J・M・ケインズの「流動性の罠」という言葉をご存知であろう。景気を回復するために、金融緩和政策で流動性の供給を増やし、金利低下を誘導して行って、金利水準がゼロまで下がってしまうと、いくら流動性を追加供給しても金利はゼロ以下には下がらない。一層の金融緩和政策は有効性を失ってしまう。この場合、景気を回復するためには、財政拡張政策(財政支出拡大や減税)が必要だとケインズは主張した。このため、財政拡張政策をケインズ政策とも言う。

【日本における「流動性の罠」とケインズ政策】
 日本で政策誘導金利である無担保コールレート(オーバーナイト物)が事実上ゼロに下がったのは、99年2月から00年8月までの「ゼロ金利政策」が最初で、その後01年3月から今日までは、「量的緩和政策」の下でコールレートが再び事実上ゼロに張り付いている。
 安倍政権は、アベノミクスの第2の矢である財政出動として、13兆円の12年度末大型補正予算と92・6兆円の13年度当初予算、合計105・6兆円の財政支出を実施した。これは2・5兆円の11年度末第4次補正予算と87・5兆円の12年度当初予算の合計90兆円に対し、15・6兆円(17・3%)の支出拡大である。まさにケインズ政策の発動である。

【これ以上発動出来ないケインズ政策】
 しかし、この歳出増加を賄うための国債増発によって、13年度末の政府債務残高の対GDP比率は212・8%に達し、財政悪化は危険な領域に入ってきた。このため、13年度末の補正予算5・5兆円と14年度当初予算95・8兆円の合計は101・3兆円にとどまり、前年比4・3兆円縮小した。歳入予算面では4月からの消費税率引き上げによって3・5兆円の税収増加が図られている。歳出と税収の差額で見た財政赤字は、これによって前年の59・1兆円から51・3兆円に7・8兆円(13・2%)縮む。財政再建の見地からは結構であるが、マクロ経済政策として見れば、ケインズ政策の逆噴射、財政緊縮財政にほかならない。

【金融緩和と成長戦略に頼る安倍政権】
 そこでアベノミクスとしては、第1の矢の金融緩和と第3の矢の成長戦略が益々重要になってくる。黒田東彦総裁が着任した昨年4月に、日本銀行は「量的・質的金融緩和」を打ち出した。これは大きく二つの柱から成っており、第1は「2%の物価安定目標を、2年程度の期間を念頭に置いて、できるだけ早期に実現する」、第2は残存期間の長いものを含めて巨額の国債買入を行うこと等によって、「マネタリーベースを2年間で2倍に拡大する」が中心となっている。「量的・質的」というのは、日銀のバランスシートの「量」の拡大と「質」の変化を指している。

【黒田日銀の考える「異次元」金融緩和の効果波及経路】
 ケインズの「流動性の罠」を忠実に解釈すると、いくらマネタリーベースを2倍に拡大しても、金利はゼロ以下に下がらないのであるから、何の効果もないことになる。
 しかし、黒田総裁は、次のような効果波及経路を考えている。まず、インフレ目標に対する明確なコミットメントと、それを裏打ちする「異次元」の金融緩和によって、企業や消費者などの予想インフレ率を上昇させる。予想インフレ率が上昇すれば、名目短期金利がゼロに張り付いていても実質短期金利は低下する。また巨額の長期国債買入によって、予想インフレ率上昇に伴う名目長期金利の上昇圧力(フィッシャー効果)を抑え、実質長期金利の下落圧力を強める。
 このような長短実質金利の低下は、①設備投資や住宅投資を刺激し、②資産価格の上昇を通じて消費などを増やし(資産効果)、③円高を修正して企業収益好転と輸出増加の効果を持つ。この①~③による総需要の増加が需給ギャップを縮小し、生産・雇用・賃金の改善による一層の需給ギャップ縮小という好循環を生み出し、2%のインフレ率を実現する。

【「異次元」金融緩和の効果は予想インフレ率上昇という「期待」の変化に懸る】
 以上のハッピーなシナリオが、黒田日銀の描く「流動性の罠」の下における金融緩和政策の効果波及経路である。その成否は、総て「予想インフレ率の上昇」という「期待」の変化に懸っている。もし「予想インフレ率」が上昇して実質金利が下がってくれば、設備投資などが回復してくる筈である。

【黒田日銀は「期待」の変化に不安か、白川日銀と同じように成長戦略を強調し始めた】
 しかし、黒田総裁や岩田副総裁は、最近アベノミクスの第3の矢である成長戦略の重要性を強調し、構造改革によって企業の投資機会を増やし、投資採算を好転させ、設備投資拡大による潜在成長率の引き上げを図ることが大切だと言うようになった。これは、白川方明前総裁が常に言っていたことである。「流動性の罠」の下では、「資本の限界効率」を引き上げることが回復の鍵だというケインズの議論から考えれば、当然である。
 黒田・岩田両氏は、「期待」の変化だけに依存する政策の成否が心配になり、「量的・質的緩和」だけで潜在成長率を引き上げることは難しいかも知れないと考え始めたのであろうか。そうであれば、黒田・岩田両氏と白川氏の違いは、「期待」の変化に賭ける「異次元」の大博打をうったかどうかの違いだけになる。