異次元的金融緩和は壮大な社会的実験 (H25.7.11)
―『世界日報』2013年7月11日号“Viewpoint”(小見出し加筆)
社会科学は自然科学と違って、普通は実験が出来ないものであるが、今の日本経済では金融政策の壮大な実験が行われていると言っても過言ではない。
【ケインズの「流動性の罠」】
金融緩和が進んでマネー・マーケットの短期金利がゼロまで低下してしまうと、中央銀行がそれ以上ベース・マネーを供給しても、ベース・マネー保有の機会費用(オポチュニティー・コスト)がゼロなので、増加したベース・マネーはそのまま保有されるだけで、貸出や投資に向かわない。この理論が、J・M・ケインズの『一般理論』(1936年)で示された「流動性の罠」である。こうなると、総需要を喚起する金融政策の有効性は無くなるので、財政支出の増加によって総需要を喚起しないと景気は立ち直らないというのが、ケインズの主張であった。
【日本経済が「流動性の罠」にはまったと見る植田教授】
日本では、1998年から2003年頃までの経済沈滞期に、初めてゼロ金利政策が実施され、更にゼロ金利の実現に必要以上のベース・マネーを供給する「量的緩和政策」が実施された。日本銀行は様々な資産を購入する「非伝統的」金融緩和政策に踏み込んだ。
この時期に日本銀行政策委員会の審議委員であった植田和男東大教授は、著書『ゼロ金利との闘い』(2005年)の中で、ゼロ金利の実現に必要な以上の流動性を供給する「非伝統的」な「量的緩和政策」は、金融システムの安定に寄与する点では有効であったが、総需要喚起政策としては効かなかったとしている。2003年以降の景気立ち直りは、構造調整の進展、株価・地価の底入れを待って初めて可能になったと見ている。
【デフレの原因は賃金の下落と見る吉川教授】
麻生内閣の経済財政諮問会議の民間委員を務め、現在財政制度審議会会長の職にある吉川洋東大教授は、著書『デフレーション』(2013年)の中で、ゼロ金利の状態の下では、ベース・マネーやマネー・ストックの増加が実体経済を刺激し、デフレを克服する効果は無かったと断定している。デフレの原因は、バブル崩壊後の不況と国際競争の激化の中で、大企業の雇用制度が大きく変わり、名目賃金が下がり始めたことにあるとしている。
【金融緩和よりも構造改革を重視】
この2人の東大教授は、現代の日本経済において、ケインズの「流動性の罠」の議論が当てはまると考え、日本経済を立て直し、デフレを克服するには、雇用制度を含む様々な盤岩規制の撤廃による構造改革が必要であり、金融緩和は有効ではないと考えている。成長戦略などの規制改革の重要性を訴え、非伝統的な量的金融緩和を徐々にしか進めなった白川方明前日本銀行総裁も、この2人の考え方に近かったのであろうか。
【一層の量的緩和を行えば有効と主張する浜田、岩田両教授と異次元的金融緩和を実践する黒田新総裁】
これに対して、量的金融緩和が効かないように見えるのは、緩和が不十分だからであり、日本銀行がもっと果敢に様々な金融資産を購入し、ベース・マネーを大量に供給すれば景気刺激とデフレ克服の効果が出ると主張するのが、内閣官房参与の浜田宏一エール大学名誉教授や、日銀副総裁に就任した岩田規久男元学習院大学教授である。また、それを実行に移し「異次元金融緩和」に踏み切ったのが、黒田東彦日本銀行新総裁である。
【前例のない超金融緩和が有効と見る浜田教授の主張】
浜田教授は、著書『アメリカは日本経済の復活を知っている』(2013年)の中で、リーマン・ショック後の中央銀行資産残高やベース・マネー残高の対GDP(国内総生産)比率の上昇が、日本は欧米よりも小さいことを指摘し、これが円高やデフレの根本原因であり、日本銀行がもっと長期の国債や民間の株式、債券を大量に購入すれば円安が進み、景気回復とデフレ解消が実現すると主張している。また、このような大胆な量的緩和は、期待インフレ率や期待成長率など「期待」を通じる効果で総需要を刺激するとした。
黒田総裁は、これを実践し、借換債を含む国債発行額の7割、新発国債発行額の10割以上に相当する国債を市場から購入するなどして、日銀資産の対GDP比率を欧米中央銀行の2倍以上にする政策に踏み切った。
【現状ではどちらが正しいかまだ判定は出来ない】
この政策実験は、真二つに分かれた経済学者の見解のどちらに軍配を上げる結果になるのであろうか。最初に出てきた効果は、長期金融緩和の「期待」が、株高と円安を招いたことだ。しかし、株高に伴う資産効果で家計消費が、また円安に伴う競争力向上で輸出数量が、経済全体を引っ張るほど伸び始めたわけではない。大量のベース・マネーを抱えた銀行が貸出や投資を増やし、設備投資や住宅投資が伸びて経済全体をリードするかどうかもまだ分からない。
企業収益は円安や株高で改善しているが、名目賃金は上がらず、雇用の改善は遅々としており、家計所得は回復していない。設備投資も企業が持続的成長を確信しない限り、低い伸びにとどまるであろう。来年の消費税率引き上げが、家計消費と住宅投資の回復の芽を摘まないかも心配だ。
金融政策の効果は、1年後にピークを迎え、2年間に及ぶ。二つの学派の主張に決着がつくのは、早くても来年のことであろう。