澄田先輩を偲ぶ (『桐陰同窓会会報』 2008年11月20日 第44号)
桐陰同窓会の会長をお務めになった43回の澄田智先輩が、92歳の天寿を全うし、本年九月七日に亡くなられた。葬儀は、田園調布教会において、近親者と協会の信者が集い、水谷務牧師の司式で執り行われた。
あまり知られていないが、澄田先輩は80歳の時に、奥様と共にキリスト教の洗礼を受け、その後は毎日曜日のように教会に通い、前から二列目の席で祈りを捧げられて居たという。大蔵事務次官、日本輸出入銀行総裁、日本銀行副総裁、総裁という要職を全力で駆け抜けたあと、80歳を過ぎて何を神に語りかけて居られたのであろうか。
私は、日本銀行副総裁、総裁時代の10年間、日本銀行金融研究所の副所長、所長、のちに理事として澄田先輩にお仕えした。誠実なお人柄で、少し理屈っぽい議論にも最後まで熱心にお付き合い下さった。
総裁時代の5年間は、将に激動の時代であった。総裁就任後9か月目の85年9月に「プラザ合意」、急激な円高と不況の中86年中に4回の利下げ、87年2月の「ルーブル合意」後更に2・50%の超低金利へ、同年10月の「ブラック・マンデー」で超低金利の是正が89年5月まで遅れ、バブルが高進。
週4回開かれる丸卓(総裁、副総裁、理事の会議)では、一方にドル下支えと内需刺激を求める政府(背後に米国)の利下げ要請、他方に節度を失った銀行の融資積極化とバブルの進行、という板挟みの中で深刻な議論が続いた。ある日会議のあとに澄田総裁は私を呼び、「私が行動を起こすべき時だと思ったら遠慮せずに言うように」と言われた事がある。ドルが底入れする89年初めまでそれが言えなかった私は、補佐不充分の誹りを免れないかも知れない。バブル崩壊後のバランスシート不況の恐ろしさを、金融史の実例でもっと報告すべきであったと思うと、内心忸怩たるものがある。
結局澄田総裁は、退任後、バブル不況の責任をかぶる事になった。当時の旧日銀法では、政府に総裁罷免権と政策指示権がある。日銀総裁の自立性には限界があった。しかしそれを口にする澄田先輩ではなかった。
総裁退任後、日本ユニセフ協会会長、桐陰同窓会会長などを務められ、お好きなフランスの文化や大使館勤務の思い出などを語っておられた穏やかなお顔は、人として全力を尽くし、あとは神の審判に委ねられたご心境を物語っていたのかも知れない。どうか天国で安らかにお過ごし下さいますように。