佃亮二君を偲ぶ
―日銀旧友会『日の友』(2019年7月号)
     
 昨年11月、佃亮二君が亡くなった。夜大濠公園を散歩中、誤って池に落ちて頭や胸を強く打ち、翌朝発見された事故死であった。1954年10月、日銀入行試験の2日後、内定電報を握りしめて駆けつけた文書の受付で会って以来、64年間、想えば長い付き合いであった。
 佃君は熊本県玉名市の出身であるが、父上の勤務の関係で、敗戦の年、中学2年生で満州の安東市に居た。ソ連軍の暴行略奪のあと、町は中国共産軍に制圧され、日本人中学生は前線の塹壕掘りやセメント袋の運搬に駆り出された。父上は部下の中国人の証言で人民裁判を免れ、1年後に家族と共に日本に引き揚げることが出来た。佃君はこれで1年休学となったが、「今私が在るのは、多くの僥倖の結果でしかない」「あの苦労の辛さを想えば、どのような苦境にも耐えられる」と言っていた。佃君の人生に対する一種の「開き直り」の姿勢は、その時身についたのだと思う。
 入行後、3年半の松本支店勤務を終えた佃君は営業局勤務となり、そこに6年間塩漬けとなった。私も同じように調査局に塩漬けとなったので、酒好きの2人は、よく飲みながら互いの局の情報を交換した。
 ある時佃君は、「公定歩合を上げ窓口指導を強化しても、コールレートの上昇を誘導しない限り金融引締めは効かない」という言い伝えが営業局にあると話してくれた。調査局流に言えば、コールレートは銀行行動のキーバリアブルであり、同時に重要な政策変数ということだ。私はこれを計測し、『調査月報』論文、東大経済学部の特殊講義、学位論文に使ったが、元はと言えば佃君のお陰なのである。
 驚いたことに、私達は2人共、「血のメーデー事件」の現場に居た。「新東前へ」という掛け声と共に、平和なデモに参加した筈の新制東大の学生は、官城前の広場に突入してしまった。この事件の後2人は、人を道具としか見ない学生運動に近付かず、2年半、学業に専念した。しかし日銀マンになってからも、酔うと「アバンティポポロ」というイタリア語の歌を、2人は肩を組んで歌っていた。
 その後佃君と私はロンドン駐在参事付となったが、1967〜69年の為替動乱の時期で、真夜中に本店宛の電報を打ちに行く毎日であった。佃君はまだ家族の来ていない私を気遣って、ご家族が居るのに家で食事をとらず、私の夜食に付き合ってくれた。2人の好きな赤ワインが「ニュー・サン・ジョルジュ」と決まったのもこの頃だ。家族が来てからは、2人の可愛いお嬢さんと私の3人の子供達も含め、家族ぐるみの付き合いとなった。
 本店に戻ってからも、再び営業局と調査局に分かれたが、支店長は新潟支店と松本支店の隣りあわせとなり、交流は続いた。
 その後佃君は、大阪支店次長、人事部次長、名古屋支店長、営業局長と歩み、86年9月に同期のトップを切って理事に昇進した。88年5月に私も理事になってからは、2人は営業担当、調査担当の理事として丸卓で椅子を並べたが、この頃を振り返り、晩年の佃君は「俺達はバブルの戦犯だな」と酔う度につぶやいた。西独が利上げをした88年、日本も利上げすべきだと2人で話し合っていたが、職を賭してまで丸卓で主張しなかったからである。
 佃君は89年に日銀を退職し、福岡銀行に移り、副頭取、頭取、会長、相談役を歴任し、11年に退任した。その間、福岡経済同友会代表幹事をはじめ、多くの公職を兼務して地元に貢献した。福岡の有名なチャンピオン・コース「ザ・クラシックGC」の理事長も務め、私共友人を誘い、プレイの後には、「アラ」をご馳走してくれた。
 昨年12月、「お別れの会」が開かれた時、ホテルオークラ福岡の「平安の間」が一杯になる程人々が集まったのを見て、佃君が如何に地元の方々から愛されていたかを知った。日銀で部下であった人達もはるばる来ていた。「得意淡然、失意泰然」を地でいく佃君の背中から、多くの人が学んだに違いない。
 佃君のご冥福を心からお祈りしたい。