マネーストック急増の先は (『金融財政ビジネス』2020.11.19日号、小見出し加筆)
【岩田・翁のマネー論争】
1992年の岩田・翁論争を覚えているだろうか。岩田規久男上智大教授(当時、その後日銀副総裁)は、信用乗数(マネタリ―ベースとマネーストックの比率)は安定しているから、日銀はマネタリーベースを増やしてマネーストックを増やせる筈だと主張した。これに対して翁邦雄日銀調査統計局企画調査課長(当時、その後京都大学教授)は、信用乗数は不安定なので、日銀はマネタリーベースを増やすことは出来ても、マネーストックを思い通りに増やすことは出来ないと主張した。
【異次元金融緩和の結果が論争の答を出した】
異次元金融緩和の7年間が、その答えを出してくれた。日銀は7年間にマネタリーベース残高を3・7倍にしたが、マネーストックは1・3倍(年増加率3%弱)しか増えなかった。その間消費者物価の上昇率は年平均1%以下にとどまった。2%の物価目標は棚ざらしとなり、廃止すると心理的に円高を招く恐れがあるのが怖いのか、「円高防止の空念仏」のように残っている。
【資産選択理論で考えるのが正しい】
銀行行動を本源的預金制約下のマネタリーベースと貸出・有効証券投資の2資産選択モデル(残差はコールローン)で考えると、日本の現状では、貸出・有価証券投資の予想利回りは極めて低く、他方マネタリーベース保有の機会費用はコールレートなので、マイナス金利の下では若干の利得となる。ただ保有が損失となるのはマイナス金利の部分の日銀預金であるが、これは銀行保有マネタリーベースの5%にすぎない。従って保有意欲はマネタリーベースの方が貸出・有価証券投資よりも相対的に強く、大量に供給されたマネタリーベースの多くはそのまま銀行保有となり、貸出・有価証券投資にあまり廻らない。
【今年に入って突然急増し始めたマネーストックと貸出の増加率】
しかし、この状態が今年に入って突然変わった。異次元金融緩和の下で前年比3%前後で動かなかったマネーストックの増加率が、急増している。昨年10〜12月期には前年比2・6%(M2)と2・2%(M3)であったが、今年10月には9・0%と7・5%に達している。銀行・信金の貸出合計は、本年1〜3月期には前年比1・9%にすぎなかったが、4月から伸び始め、10月には6・2%に達した。コロナ禍対策で、無利子無担保などの貸出が、予想収益率に関係なく促進されているからである。マネーストックには、この貸出金のほか、持続化給付金など各種のコロナ関連支援金が、財政から直接振り込まれている。この8〜9%に達するマネーストックの伸びは、1991年以来30年間見られなかった高い伸びだ。
【過去のマネーストック急増とその帰結】
戦後の日本経済で、このようにマネーストックが急伸したことが、復興期を別として2回あった。ニクソン・ショック後の1971〜73年とプラザ合意後の86〜90年である。前者は過剰流動性インフレとなり、後者は資産バブルを生んだ。この2回とも、円高を防ぐための超金融緩和によるものだ。その反省を込めて、98年の日銀法改正では、金融政策の目標に為替相場は入っていない。現在の2%物価目標を持続する理由に、円高防止が入っているとすれば、気に懸る。
【今回のマネーストック急増の帰結に日銀は十分な注意を】
今回のマネーストック急伸は、この先何をもたらすであろうか。楽観的シナリオは、現在の通貨保有増加は予備的動機によるもので、大きく落ち込んだ経済の立ち直りを、支えていくというものだ。しかし冷静に見ると、前途にリスクは多い。まだバブルとまでは言えなくても、悪化する企業収益の割に過大に評価された株価と、収益に比し過剰な借入金を負った企業は、今後金融危機の種にならないだろうか。低金利やマイナス金利で収益の悪化している金融機関は、今企業収益悪化の下で増えている貸出が将来不良債権化した場合、経営困難に陥らないだろうか。これらのリスクに対し、日銀は今後十分な注意を怠れない。