中央銀行の独立性 (『金融財政ビジネス』2013.4.4日号)

 安倍晋三首相は、昨年12月の総選挙の際に日本銀行(以下日銀)法の改正を口にしていた。しかし、現在は7月の参議員選挙が終わるまで、要らぬ波風は立てたくないためか、政府の内部に日銀法改正の動きはないようだ。選挙の結果、自由民主党が大勝すれば、日銀法改正も俎上にのぼって来るかもしれない。
 現在の日銀法は、97年6月の国会で成立し、98年4月に施行された。それ迄の旧日銀法は、太平洋戦争中の42年にナチス・ドイツの中央銀行法を真似て作ったもので、政府が日銀に対する政策指示権と、日銀総裁の任免権(首切り権)を持っていた。戦後、49年には政策委員会が設置されたが、政府の政策指示権と総裁首切り権は残ったままだった。
 円切り上げ後の72〜73年に、「日本列島改造計画」を掲げた当時の田中角栄首相は、一層の円高と不況を阻止するため、超金融緩和継続の圧力を日銀に懸け、水面下では当時の佐々木直日銀総裁更迭の話が流された。こうした中で政策転換が遅れ、「過剰流動性インフレ」が発生し、74年には第1次石油ショックが重なって「狂乱物価」となった。
 また、「ルーブル合意」後の87年10月にニューヨークで「ブラック・マンデー」が発生すると、日本国内では景気上昇が加速し始めていたにも拘らず、一層のドル安を防ぐため、超金融緩和継続の要請が政府から日銀に加わり、87年〜89年のバブル膨張と90年以降のバブル崩壊・金融危機、「失われた20年」となって行った。この時も水面下では、当時の三重野康日銀副総裁の総裁昇格人事が危ういという話が流れた。
 その後政府に「中央銀行研究会」が設置され、二つの金融緩和からの「出口政策」失敗の背景には、政府の政策指示権と総裁任免権があることが認識され、金融制度調査会の議を経て、97年の日銀法改正が行われたのである。
 新日銀法では政府の政策指示権は廃止され、金融政策は正副総裁3名と審議委員6名から成る政策委員会が決定することとなり、政府は政策委員会に対する議決延期請求権を有するのみとなった。しかし、国民から選ばれていない政策委員会のメンバーが完全に独立して金融政策を決めることは、民主主義の原則に反するので、四つの縛りが掛っている。
 第一に正副総裁と政策委員会委員は国民の代表である衆参両院の同意を得て内閣が任命する(但し在任中はその意に反して解任されない)。第二に日銀の政策は、物価安定を通じる国民経済の健全な発展に資するように、通貨・金融の調整を行うことと定め、第三に、その際政府の経済政策の基本方針と整合的になるように政府と十分な意思疎通を図ることが義務付けられ、第四に国民に対して政策決定の過程と内容を明らかにする透明性向上の義務が課された。
 このような形の中央銀行の独立性は、米国の連邦準備制度理事会と欧州中央銀行に倣ったもので、長い歴史の知恵として欧米で生まれた。選挙を控える政治家は、どうしても、目先の短期的課題を重視しがちになる。これに対し、中央銀行は経済変動を通じた長期の物価安定と経済発展を図る使命を負っている。このため、欧州中央銀行理事(総裁を含む)の任期は8年、米国準備制度理事(議長を含む)は14年と長いのである。
 今日本では7月の参院選までに景気回復に勢いをつけて大勝し、4〜6月期の高成長が明らかになる秋には、来年4月からの消費税3%引き上げを確定したいという短期の目標が、政府・与党の最大の関心事である。しかし5年間の任期を持つ黒田新総裁は、アベノミクスが成功すれば、「大胆な緩和」からの「出口政策」という現状とは真逆の難しい課題に直面し、新日銀法と黒田新総裁の真価が試されることとなろう。