館龍一郎先生を偲ぶ (『金融財政ビジネス』2012.5.10号)

 館龍一郎先生が、去る2月11日、90歳で逝去された。晩年は活動を停止しておられたが、先生が第二次大戦後半世紀程の間に日本に残された足跡は、極めて大きいと言えよう。
 先生は昭和19年9月、東京帝国大学経済学部卒業後、直ちに徴兵されたが、翌20年の敗戦で復員され、日本銀行に就職された。後に金融論の大家になる先生を、日本銀行は、朝から晩までお札の勘定や窓口でのお札の出納事務に従事させた。
 このため館先生は、新円・旧円の交換事務で、窓口に来た第三国人に殴られたり、お札を収納した大量の木箱と共に貨車に積み込まれ、九州まで旅するという経験をされた。途中大阪駅で積みかえる際、箱が転がって札束が飛び出し、大いに慌てたという話を伺ったことがある。
 日本銀行には、大学出の幹部候補生を先ず札勘定やそろばんの事務に就かせ、発券銀行である中央銀行の本質を体得させるという伝統的な教育方針がある。しかし、館先生が心の中で、自分は日本銀行に向いていないと思われたとしても、不思議はない。
 幸い、1年に1日足りない364日間日本銀行に勤務した後、東京大学経済学部の特別研究生に採用され、いよいよ学問の道を歩み始める。昭和25年には助教授となり、以後昭和57年定年退官されるまで、東京大学の金融論を講じることになる。
 当時の東京大学経済学部は、マルクス経済学の王国で、近代経済学の先生は、古谷弘、大石泰彦、館龍一郎の若手助教授のみであった。経済原論、経済史、経済学史、経済政策論、財政学など主な講座は総てマルクス経済学で、その中で金融論だけが近代経済学ということになった。
 東京大学以外では、多くの場合金融論は経営学部や商学部における貨幣論、利子論、銀行論、金融制度論、金融史などとして講じられていた。日本金融学界で発表される研究も、歴史や制度が中心であった。
 このような日本の金融学界を変えたのが、館先生である。近代経済学のマクロ理論とミクロ理論の応用分野として、経済主体の金融行動と経済的帰結を論じられた。理論計量経済学界(現在の日本経済学界)や、金融学界でも同様の視点から研究を発表し、討論に参加された。多くの本も著されたが、啓蒙の書として広く影響を与えた著書は、小宮隆太郎先生と共著の『経済政策の理論』(昭和39年)と浜田宏一先生と共著の『金融』(昭和47年)であろう。こうして沢山の後進が館先生の下で育ち、日本の金融論が発展して行った。
 私も館先生の金融論を大学で学び、日本銀行に入ってからも、先生の御指導を受けた一人である。私は在学時代、館先生と同時に特別研究生となり、助教授に就任された大石泰彦先生のゼミに所属したのであるが、大石先生は誠に太っ腹な方で、私が日銀時代に金融論や金融政策論の論文を学界に発表するようになると、「私から話しておくから、以後は館先生に師事せよ」と言われた。館先生の大学の研究室や上大崎のご自宅に通うようになった私は、先生のご指導によって自信を持って論文や著書を発表することが出来た。大学院に通っていない私に東京大学が学位を下さったのも、大石、館両先生のご指導によるものと感謝している。
 館先生はまた、日本の現実の政策形成にも強い影響を与えた。日本銀行金融研究所顧問(昭和57年)や参与(平成3年)として、日本銀行内部の調査・研究を指導され、また金融政策に所見を述べられた。また大蔵省(現財務省)の財政金融研究所長(昭和60年)を務め、更に金融制度調査会の会長(平成7年)として、金融制度改革に貢献された。
 改めて館先生のご冥福を心からお祈り申し上げたい。