『追想 吉野俊彦』の刊行 (『金融財政』2006.8.7号)

   吉野俊彦さんが亡くなって、間もなく一周忌を迎える。故人の遺志により、納骨が終わる九月下旬まで喪が伏せられたが、ご命日は八月十二日である。
   顧みると、吉野さん程多面的な活動をされた方も珍しい。一貫して調査畑を歩み理事にまで昇進した「日銀マン」、東京大学から学位を授与された「経済学博士」、マスコミで大活躍した「経済評論家」、陸軍軍医と文豪の二足の草鞋をはいた「森鴎外の研究家」などである。
   何人かの方がマスコミに追想文を書かれたが、ほとんどは下村論争などタレント評論家としての吉野さんを追想されていた。しかし私は、あまり語られない二つの業績に敬服している。
   一つは、日本銀行の調査研究畑を今日の姿に育て上げる上で、いばらの道を切り開かれたパイオニアとしての吉野さんである。海外出張で先進国中央銀行のエコノミストと接する機会の多かった吉野さんは、「優れた調査部門を持たなければ一流の中央銀行にはなれない」を信念に、調査部門の充実と後輩エコノミストの育成に心を砕かれた。
   当時吉野さんに対する行内の風当たりは強く、吉野さんと調査局を重用した総裁は、昭和二十年代の一万田さん以後は宇佐美さんただ一人であった。政策決定の前提となる経済情勢の判断まで、総務営業畑が準備する有様であった。
   しかし、吉野さんの志に対するよき理解者も居た。三年先輩の前川春雄さん(理事、後に副総裁、総裁)や外山茂さん(調査局長、後に理事)である。吉野さんの志を継いで努力した西川元彦さん、吉野道夫さん、江口英一さんなどの後輩も居た。吉野さんの前に道は無かったが、吉野さんの後には道が出来た。
   今日、調査統計局と金融研究所は、各国の中央銀行や内外の学界から注目され、客員として滞在する人も多い。行内の政策決定では、重要な役割りを果たしている。役員にも、今では多くのエコノミストが居る。日本銀行出身の民間エコノミストや大学教授も大勢居る。
   吉野さんのもう一つの立派な業績は、日本銀行を退職された後、民間の「歴史派エコノミスト」として展開された政策論である。
   一九八〇年代後半に資産バブルが発生した時、政府も日本銀行も、物価が安定しているから心配ないという立場をとり、八九年五月まで金融緩和を続けた。資産価格は金融政策の対象ではないと広言する日本銀行理事も居た。
   その後金融引締めに転じると、政府の不動産融資規制も加わって、今度は激しい資産バブルの崩壊が起った。
   吉野さんは八七年当時から、資産バブルが発生すれば必ずその崩壊過程が後に続き、大正から昭和初期に経験したような金融システムの混乱と大不況が起きるので、資産バブルは発生段階で未然に防がなければならないと説いた。しかし、不幸にして吉野さんの警鐘に耳を貸す当局者は居なかった。日本経済は「バランスシート不況」で「失われた十年」に陥った。
   吉野さんの一周忌を前に、この程『追想 吉野俊彦』(三七九頁、頒価三千円)が、吉野俊彦博士追想録刊行委員会によって編集、発行された。八十一名の方が吉野さんの多面的な活動や生きざまを追想し、百十一名の方から刊行基金が寄せられた。この本には、吉野さん自身が語る自叙伝、吉野さんの活動に合わせて六つの分野に編集された追想文と並んで、資料篇には、「歴史派エコノミスト」吉野さんの八七年以降の政策論が、解題付きで収められている。