竹中経済学は日本の現実に合わない (『金融財政』2003.1.6)
周知のように、マクロ経済学には昔から二つの大きな潮流がある。一つは市場経済に内在する自律的均衡回復力に信を置く考え方で、「神の見えざる手」による均衡を説いたアダム・スミスの古典経済学に始まり、現代では新古典派と呼ばれる。もう一つは市場の失敗を重視する考え方で、裁量的財政政策の重要性を説いたJ・M・ケインズが近代の祖である。「期待」の役割が重視される現代の経済学でも、前提となるモデルではこの二つの潮流が生きている。
最近マスコミがよく採り上げる「財政再建か、景気回復か」といテーマもこの二つの潮流に係っている。
新古典派の経済学では、財政再建によって財政赤字を縮小すると、その縮小分だけ「事前」の貯蓄が余り(国債発行で吸収されていた資金が国債発行の縮小分だけ市場に余り)、金利が低下する。そうすると、民間の資金需要が出てきて余った貯蓄(余った資金)を吸収し、投資に回すので、その分だけ投資が増加する。したがって、財政赤字の縮小は民間投資の増加によって穴埋めされ、不況は放っておいてもやがて解消する。ここでは「景気回復」を「財政再建」に優先させる必要はない。高度成長期の日本がそれに近かった。財政収支の黒字の下で、金融さえ緩和すれば景気は自律的に回復した。
これに対して最近の日本経済は、一九九七年度の橋本内閣の予算(九兆円の国民負担の増加)でも、二〇〇一年度〜二〇〇二年度の小泉内閣の予算(国債発行三〇兆円枠と公共投資の削減)でも、「財政再建」最優先の掛け声で財政赤字を削減したが、結果は一九九八年度のマイナス成長であり、また二〇〇一年度のマイナス成長であった。その結果税収は落ちて財政赤字は逆に拡大している。
現在の日本経済は、日本銀行が市場に二〇兆円もの余剰資金を置き、金利をゼロにまで下げても、民間はその資金を借りて投資を行おうとはしない。このような恒常的な不均衡を、ケインズは「流動性のワナ」に陥った「投資の利子非弾力性」の状態と呼んだ。
このようなケインズ・モデルの世界では、財政赤字を減らして(国債発行を減らして)貯蓄(資金)を余しても、金利はゼロから下に下がらないので、民間がその余った貯蓄(資金)を使って投資を増やそうとしないのである。従って、財政赤字の削減は「事前」の貯蓄の余剰(需要不足によるデフレ)を生み出すだけで、景気の自律的回復は起こらない。
それでもなお「財政再建」最優先で「景気回復」政策を十分に打たないのが小泉経済政策であり、その理論的支柱が竹中経済財政・金融大臣である。日本経済の現実に合っていない新古典派的政策に固執する大臣の下で、日本経済が壊れて行くのは、本当に残念なことである。
法人税と所得税の大幅減税や都市再開発投資などの裁量的財政政策で需要を刺激すれば、物価の下落は止まる。そうすれば、名目金利から予想物価上昇率を差し引いた実質金利は、ゼロ金利の下でも低下する。経済の先行きに関する企業の予想も好転してくる。それらの結果、民間の投資が徐々に出てくる。
民間投資主導の成長が始まれば、財政拡張政策は裁量的に縮小できるし、税の自然増収も加わって財政赤字の縮小政策が可能になる。不良債権の新規発生が減り、一部の不良債権は正常化するので、業務純益による銀行の自主的な不良債権処理も容易になる。今の「景気回復」最優先が将来の「財政再建」に道を開くのである。