何のための不良債権処理か (『金融財政』2002.11.14)

 不良債権早期処理が、再び小泉内閣の最優先課題に浮上した。しかし冷静に考えてみると、長引く経済停滞の結果、昨年中に新たに発生した不良債権の額が銀行の一年間の業務純益を上回っている。つまり利益を全額不良債権の処理(引当てや償却や売却)に使っても、不良債権は増加するのである。

 このような状況では、仮に公的資金を投入して不良債権を一掃しても、翌年から再び不良債権が少なくとも銀行の利益を上回る分だけ発生するであろう。従って不良債権一掃の状態を続けようと思えば、毎年毎年限りなく公的資金を投入して行かなければならない。このような税金の垂れ流しを続けることは許されない。

 従って、銀行の業務純益を上回る新しい不良債権が発生するような経済停滞を続けている限り、不良債権の一掃は不可能であるという結論になる。それなのに小泉政権は、どうして景気回復に軸足を移さず、ただ不良債権処理だけを急ごうとするのであろうか。

 おそらく小泉首相は、不良債権を減らさない限り銀行はリスクを取って貸出を増やし、景気回復を促進する意志も能力も涌かないので、一掃は無理だとしても、とにかく不良債権を減らすのだ、と考えているのであろう。しかし、翌年から再び利益を上回る不良債権が発生するような経済停滞の下で、銀行がリスクを取って融資を積極化するであろうか。私はすこぶる疑問である。むしろ自己資本比率を少しでも上げるため、資産圧縮の「貸し渋り」「貸しはがし」に励み、景気をいっそう悪化させるであろう。

 これは結局「不良債権処理なくして景気回復なし」か「景気回復なくして不良債権処理なし」か、鶏と玉子のような話である。米国、英国、スウェーデンなどは、早い段階で不良債権を処理し、その後景気が回復した。この成功体験を踏まえて、米国政府は小泉政権に対して「不良債権処理なくして景気回復なし」と主張しているのであろう。

 日本も、不良債権の中身がバブル崩壊に伴う不良債権だけであった九〇年代前半までは、この論理が通用した。しかし現在の不良債権は十年間の経済停滞に伴う不良債権が大半であり、それがどんどん増えているのである。このような場合は、景気を回復させながら不良債権を処理するのが正しい。景気回復を重視しない小泉内閣には、不良債権一掃は不可能だ。

 今回の措置でもう一つ気になるのは、「改革の理念」との関係である。公的資本の注入を受けた銀行では、国が巨大株主となるので、人事その他の株主総会決定事項には国のガバナンスが及ぶ。しかし、ひとたび経営責任者を選んだら、経営の内容には国がタッチせず、収益を挙げたかどうかの結果責任を次期株主総会で問うべきである。前回の金融健全化法に基づく公的資本の注入では、中小企業融資比率まで含む経営健全化計画を提出させ、金融庁がいちいちチェックしている。銀行のポートフォリオまで縛るようなこの行政介入は、行き過ぎである。

 公的資本注入後は、あくまで株主としてのガバナンスにとどめ、市場経済における経営の自主性を尊重して、収益力回復という結果責任だけを問うべきである。

 市場経済の自律性を尊重する構造改革の下では、公的資本注入の結果は「国有民営」であって、「国有国営」にしてはならない。行政の過剰介入を排除するのが、構造改革であるということを、決して忘れてはならない。