三木武夫生誕100年記念の集いH19.3.18)



【政治家のみならず幅広く三木さんを慕う人が集った楽しい会】
 昭和49年から51年まで首相を勤めた三木武夫さんの生誕100年を記念する集いが、3月17日(土)正午から、憲政記念館で開かれた。呼掛人は、河野洋平衆議院議長、高村正彦衆議院議員、小池唯夫氏の3人で、私は三木内閣の時代に、経済政策に関する私的アドバイザーとして南平台の三木邸にしばしば伺候していた関係で招かれた。
 集った方々は、政治家は少なく、政治評論家やジャーナリストや一般の方々で、生前の三木武夫さんと関係が深く、心から三木さんを慕っていた方々のように見受けられた。
 挨拶は、乾杯の音頭を含めて河野さんと高村さんの二人だけで、あとは三木さんを偲びながら、日本の来し方行く末を語り合う良い集まりであった。私も古い付き合いの河野さんや海部さん(元総理)や三木派の若きホープであった高村さんと旧交を温め、また三木内閣時代にNHKの記者であった池田元久衆議院議員や政治評論家の岩見さんなど、多くの方々と話をすることが出来た。

【自民党多数派は三木さんの理想主義者的側面を見誤った】
 三木さんは、派閥政治時代の自民党で、少数派閥の長でありながら総理・総裁となったためか、権謀術数に長けた「バルカン政治家」のように言われる。しかしそれは三木さんの一面、いわば「戦術」面の動きだけを見ている人の言い方にすぎないと思う。三木さんの政治家としての偉さは、日本の政治について抱いていた理想主義であり、日本の政治を改革しようという大きな「戦略」的発想にあったように思う。
 その理想主義的姿勢が総理になって表面に出てきたため、力のバランスを保つだけのバルカン政治家と思って推挙した自民党の多数派派閥は大いに困惑し、とうとう「三木おろし」に走った。

【ロッキード事件と三木おろし】
 その最たるものは、ロッキード事件における田中角栄(当時は前総理)さんに対する三木さんの態度であった。三木さんは最大派閥の田中派の意に反し、一切司法に政治的圧力をかけなかった。
 金銭関係のみならず、その政治的姿勢についても、「クリーン三木」と言われ、三木内閣は最後まで国民から高い支持率を得ていた所以である。
 しかし、三木首相に対する支持率は高くても、国民は「三木おろし」に狂奔する自民党を支持せず、選挙で大きく議席を減らしたため、その責任を取らされて2年間で退陣した。

【三木さんとの初めての出会い「これからは経済が大切」】
 私が三木武夫さんと初めてお会いしたのは、「椎名裁定」で三木さんが総理・総裁となる直前である。たまたま海外出張から帰った時、空港に迎えに来た車の中に、「三木武夫さんが至急会いたいと言っている」との伝言があった。当時、日本銀行調査局特別調査課長であった私は、何事ならんと思って南平台の三木邸に伺候した。娘婿である高橋秘書に導かれて、記者に気付かれないように裏口から入り、お茶の間のコタツにあたってミカンを食べていた私の前に、和服姿の三木さんが政治家や記者でごった返していた応接間を抜け出して現われた。「これからは経済が大切だと思っているが、十分な準備がないまま政権を担当することになった。ついては経済のアドバイザー・グループを作るので、金融の専門家として入ってくれ」という主旨の話であった。
 このグループは、故大来佐武郎さんを議長格に、小宮隆太郎、故村上泰亮、正村公宏などの大学教授と私、それと財界から鈴木治雄さん(当時昭和電工会長)とでスタートした。

【三木さんは少子高齢化対策の布石を打とうとしていた】
 毎月のようにホテルの個室で夕食をとりながら、三木さんを囲んでこのグループの会合が開かれたが、その中から生まれたのが三木さんの「ライフサイクル計画」である。
 日本の経済、社会の将来を考えた時、いま打つべき政策は何かという三木さんの質問にお答えする中で、「ライフサイクル計画」の構想が生まれた。
 いまから32年前の三木内閣の頃、既に日本の少子高齢化が急速に進むことが分っていた。そこで、日本国民1人1人が、生涯(ライフサイクル)のあらゆる段階で安心して生きて行くことが出来る体系的保障と自助努力の機会を創造する「ライフサイクル計画」を三木内閣の手で創ろうということになった(詳しくは『ライフサイクル:生涯設計計画』日本経済新聞社、昭和50年参照)。

【今日の課題を先取りした三木さんの「ライフサイクル計画」】
 この計画では、各自のライフステージを横系とすれば、縦系は年金・医療などの社会保障制度、育児と仕事を両立させる制度、教育と労働の制度、高齢化社会対策、住宅対策である。
 「ライフサイクル計画」は、族議員と官僚の壁にはばなれ、「三木おろし」の中で実現出来ずに終わった。もしこの計画が32年前にスタートしてれば、日本の社会と経済は大きく変わっていた事であろう。何故なら、ライフサイクル計画の柱は、いま政治的大問題となり、今後数年のうちに解決しなければならなくなっている年金、育児、教育、労働などの問題を全て先取りしているからである。
 三木さんの先を見る目を活かそうとしなかった自民党は、いまになって一段と深刻になったこれらの諸問題に直面して四苦八苦している。それだけではなく、日本国民にも、32年前に少子高齢化対策を開始しなかったツケが回り、大きな先行き不安を抱いている。

【国会の議論は政治家同志で】
 三木さんは、日本の政治の在り方についても、理想主義的な構想をいくつも抱いていた。
 夕食にお招き頂き、睦子夫人のお手料理でおもてなしを受けながら、三木さんが私に熱っぽく語ったことが、今でも私の耳許から離れない。その中の二つの構想が、その後実現した。
 一つは、国会から「参考人」という名の官僚による答辯を締め出し、政治家同志の議論しか出来ないようにすべきだ、という構想である。今の言葉で言えば、官僚主導の政治から政治家主導の真の政治に変えようと言うことだ。
 これは、平成11〜13年の自自連立時代に、自由党の小沢党首の主張が自民党に受け入れられ、形の上では実現した。ただ、昔より少なくなったとは言え、先進国の議会とは異なり、今でも官僚の答辯が残っている。

【党首選挙はもっと国民参加型に】
 もう一つ、三木さんが描いていた構想で、その後ある程度実現したことがある。
 それは、政権を目指す政党の党首選挙は、米国の大統領選挙のように、国民参加型に改めるべきだ、という構想である。これは、自民党と民主党で徐々に取り入れられ、今では党員や党友が地域ごとに投票し、その結果と国会議員による投票の結果を合わせて党首が決る仕組みになっている。
 しかし、三木さんが私に語っていた構想は、もっと米国大統領選に近いものだ。党首候補者は、各地を回って直接国民に対して演説し、国民の投票が持つ影響力をもっと高めるべきだ、というものである。
 「ライフサイクル計画」にせよ、この二つの政治改革にせよ、三木さんは明らかに時代を先取りしていた。このような時代の先駆者が、あの派閥政治の全盛時代に政権についたことは、驚くべきことである。
 三木さんが30年後の現代に生きていれば、あるいは三木さんのような政治家が現代に存在して居れば、と思うのは、私だけであろうか。