赤字削減至上主義の誤りを正す―いま成すべきことはほかにある(H24.8.23)


【現代の赤字削減至上主義は極めて不適切―2人のノーベル経済学賞受賞者の主張】
 デフレが継続している下で、13.5兆円(DGPの2.9%)の消費増税を実施する法律が、民自公を中心とする国会の多数で成立した。日本は、明らかに自らの経済と国民生活を窮地に追い込む誤った道を歩み始めたようだ。
 夏休みに読んだ本の中に、2人のノーベル経済学賞受賞者の本があった。ポール・クルーグマンの『さっさと不況を終わらせろ』(2012年)とジョセフ・E・スティグリッツの『世界の99%を貧困にする経済』(2012年)だ。2人は、雇用や経済成長の促進よりも財政赤字や政府債務の削減を優先課題とする「緊縮論者(オーステリアン)」(クルーグマンの表現)や「赤字削減至上主義」(スティグリッツの表現)を現代における最も不適切な政策提言をする者として、様々の視点から鋭く批判している。
 かねて、現代の日本のマクロ経済政策について私が述べていることと同じことを、米国や欧州の経済について2人のノーベル経済学賞受賞者が主張しているので、大変心強く思った。
 以下では、2人の主張を参考にしながら、現代の日本で、財政赤字削減を目的として、13.5兆円もの大幅消費増税を実施することがいかに誤った経済政策であるかを、改めて整理してみたい。

【4年前のリーマン・ショック直前の水準に回復していない日本の経済と国民生活】
 現在の日本経済は、リーマン・ショック後4四半期に及ぶマイナス成長(通計-9.2%の下落)から立ち直り、東北大震災のショックによる2四半期のマイナス成長(同-2.5%の下落)を乗り越えて、徐々に回復しつつあるが、それでも12年4~6月期現在の実質GDPは、リーマン・ショック直前の08年1~3月期に比べて、まだ-1.7%低い水準に在る。4年と1四半期経っても、日本の経済規模はまだ元の水準に戻っていないのである。
 この4年1四半期の間にも設備投資は続いて供給能力は伸びていたから、供給能力と需要のギャップは拡大し、デフレ(物価水準の持続的下落)が続いている。また完全失業率は3.8%(08/3)から一時5.7%(09/8)まで上昇し、現在も4.3%に高止まりしている。現金給与総額は08年上期から12年上期までに-3.9%下落し、雇用と給与総額から成る名目雇用者報酬は、リーマン・ショック直前の08/4~6月に比し、本年4~6月は-5.3%低い水準にある。国民の生活水準は未だにリーマン・ショック直前の08年4~6月の水準を回復していない。

【日米欧の経済は「流動性の罠」にはまった状態】
 このように経済の規模と国民の生活水準は4年前の水準に回復せず、先行きを展望しても経済成長率は低く、失業率は高く、デフレの収束は見通せないので、企業の設備投資意欲は未だに弱い。ゼロ金利政策の下でも設備投資主導の回復は起こらず、企業は収益を溜め込むはかりで投資に使おうとしない。
 J・M・ケインズは、このような状態を「流動性の罠」と呼んだ。中央銀行が超金融緩和政策を実施して、いくら「流動性」(ベース・マネー)を供給して金利をゼロまで下げても、流動性が民間に積み上がるばかりで投資が起きてこない状態なので、経済は「流動性の罠」にはまったと言ったのだ。
 現在の米国とEU諸国の経済も同じ状態にある。ゼロ金利政策を実施しているのに、米国の成長率は潜在成長率以下から回復せず、失業率はリーマン・ショック前の4%台に比べ、現在は8%台に高止まりしている。EU諸国のうちユーロ圏の今年の成長率はマイナス成長と予測され、失業率はリーマン・ショック前の7%台に比し、最近は11%台に乗ってきた。

【「ギリシャ化の恐怖」がデフレ下の赤字削減至上主義の温床】
 このように金融政策が罠にはまって有効性を失った需要不足経済では、財政政策が支出拡大や減税によって需要を拡大し、成長と雇用の回復を図るべきであるというのが、1936年の著書でケインズが主張した政策である。事実、リーマン・ショック後の08~10年頃には、日米欧の政策当局はゼロ金利政策と並んで財政拡張政策を採用して経済の回復を図った。
 しかし、その結果財政赤字が拡大し、政府債務が増加すると、10~11年頃からは目先の成長や雇用よりも、財政赤字と政府債務に注意を払い、財政緊縮政策に転換すべしという主張が、OECDやEU内部から起こり、日本や米国にも入ってきたのである。
 その直接の切っ掛けは、「ギリシャ化の恐怖」である。財政赤字の拡大で国債金利が上昇し、それが更に赤字拡大を拍車し、遂にはギリシャのように国債のデフォルトに至るという恐怖感である。

【日米のような自国通貨建て国債にデフォルト・リスクは無い】
 しかし、これは経済に対する無知から生まれた「恐怖感」というほかはない。
 日本や米国のように、自国通貨建てで発行している国債にデフォルトはあり得ない。政府に自国通貨が無くなることは、あり得ないからだ。いざとなれば、政府は自国の中央銀行からいくらでも自国通貨を調達できるからである。そこに存在するリスクは、デフォルト・リスクではなくて、中央銀行の政府貸出(国債引受け・購入を含む)の行き過ぎが放漫財政を生み、インフレを引き起こすインフレ・リスクである。これは国民生活を破壊し、経済を混乱させるので決して好ましい事ではないが、インフレで債務者利得が発生し、また税収も増えるので、財政赤字と政府債務は縮小する。
 このような国民の犠牲を伴う放漫財政は決して許してはならない。しかし、自国通貨建て国債にデフォルト・リスクが無いことは、経済の基礎的知識として、確りと認識しておくできである。

【格付会社の日米国債格下げは空振り】
 ところが、スタンダード&プアーズ(S&P)やムーディーズのような格付会社が、このことを確りと認識していなかったようだ。景気対策で財政赤字と政府債務が増えたという理由で、02年には日本国債の、11年には米国国債の格付けを引き下げた。ところが、市場の投資家はその後日米の国債に対する選好を弱めるどころか、逆に強める傾向にあり、格付会社が格下げした後今日に至るまで、両国の国債は値上がり(金利は低下)している。
 これらの格付会社は、リーマン・ショック発生後に暴落し、デフォルトした各種の金融派生商品に、日米国債を上回るAAA格を付けていたことから見ても、見識が疑われるというべきであろう。

【ユーロ圏の国債は外債と同じでデフォルト・リスクがある】
 ユーロ加盟国の国債は、日米国債とは異なる。これらはユーロ建国債であり、ヨーロッパ中央銀行(ECB)やその傘下にあってユーロシステムを構成する自国中央銀行は、各国政府の要請に応じてユーロを融通することはない。従って、ユーロ加盟国の政府は、ユーロが足りなくなってデフォルトを起こすことはあり得るし、現にギリシャがそうであった。
 要するに、ユーロ加盟国の国債はすべて外債と同じであり、外貨に窮すればデフォルトするのと同じように、ユーロが足りなくなってデフォルトするリスクがあるのである。歴史上、国債のデフォルトはすべて外債のケースである。

【ユーロ周縁国の困難は日米とは異質、日米の「ギリシャ化の恐怖」は見当違い】
 ギリシャは放漫財政と財政赤字の隠ぺいを行っていたので論外であり、ポルトガルもやや財政規律を欠いていたが、いまデフォルトが心配されているアイルランド、スペイン、イタリアの財政赤字と政府債務は、リーマン・ショック以前にはそれ程大きくなかった。これらの国の当面の困難は、リーマン・ショック後に景気対策や銀行支援で財政赤字と政府債務が増加したからというよりも、ユーロ圏に加盟しているため自国の財政赤字や政府債務を減らす独自の対策が打てないところにある。ユーロ周縁国は独自の通貨を持っていないため、独自の低金利政策と為替相場の切り下げによって自国経済の規模と所得水準を引き下げ、そこから経常収支の改善と新しい成長を図ることが出来ないのだ。
 このような「価格調整」の道を断たれ、もっぱら緊縮政策という「所得調整」で貿易と財政の双子の赤字を改善しようとしているところに、最大の困難がある。そこには財政悪化と景気後退と銀行(の資産内容悪化の)危機の悪循環があり、政府は自国中央銀行から自由に融資を受けられないので、悪循環を止める手を打つことが出来ない。前途はしばらく厳しいであろう。
 ユーロ圏という通貨圏を維持するためには、ECBがユーロ圏諸国の国債をもっと積極的に買入れ、ユーロ圏内の黒字国(ドイツ、オランダ、オーストリア、北欧諸国)が赤字国(ギリシャ、アイルランド、ポルトガル、スペイン、イタリア)の調整を援けるため、もっと拡張政策を採って赤字国からの輸入を増やし、更にユーロ共通債を発行して赤字国のインフラ投資を行うなどの抜本的対策を行うことが望ましいが、果たして協調してやれるであろうか。

【緊縮がもたらす「安心感」がデフレ効果を上回ることはない】
 以上詳しく述べてきたことから分かるように、日米における「ギリシャ化の恐怖」は日米とユーロ加盟国の経済条件が抜本的に違うことを理解していない人の「故なき恐怖感」であるが、それとは別に、経済の論理として、目先の成長や雇用の促進よりも、将来の財政赤字と政府債務の縮小の方が大切な政策目標だと説く「緊縮論者」「赤字削減至上主義者」が居る。
 理論的に言うと、財政赤字や政府債務を縮減すれば、国民が将来の大幅増税などの「不安感」から解放され、「安心感」から支出を拡大するので、その拡張効果の方が、財政赤字削減の縮小効果よりも大きいというドクトリンである。
 しかし、各国の経済史を研究した成果から明らかなように、財政緊縮と経済成長が両立したケースは、常に他の要因(世界的ブームや為替相場下落による輸出急増<02~07年の日本のケース>、ITバブルの発生<97~00年の米国のケース>など)で経済が拡大したケースであり、他の要因が無い時に両者が両立したケースは存在しない。とくに今日のユーロ周縁国には、「他の要因」はユーロ圏黒字国が作り出さない限り存在しない。

【緊縮政策を支持する経済学史上の理論】
 経済学史上は、シュンペーターやハイエクの「清算主義」が緊縮論の先駆と言ってよいであろう。「創造的破壊」(シュンペーター)という言葉があるように、緊縮政策の下で古い産業、企業は廃れ、新しい技術革新の担い手が伸び、市場経済が再び発展するという考え方である。高度成長時代、日本ではこれを「しごき論」と呼んだ。
 新しくはJ・R・ヒックスの『景気循環論』にあるストック調整原理も、市場経済の自律回復のメカニズムを説いている。設備、雇用、負債などの過剰ストックが、緊縮政策の下で調整され、適正水準に下がれば、自律的に設備投資、雇用、資金調達の回復が起こって景気の上昇が始まるという理論である。

【創造的破壊もストック調整も力を欠いた現代の日本経済】
 以上の二つの理論は、一般論としては理解できるが、現代の先進国経済、とくに日本に当てはまるかどうかは、十分に条件を吟味してみる必要がある。
 現代の日本経済では、環境、エネルギー、医療、介護、育児、農業などにイノベーションの余地はあるが、それらが緊縮政策の下で自律的に伸びてくるとは思えない。やはり政府の成長戦略に基づく支援、財政援助などが必要であろう。若くて活気に満ちたイノベーティブな発展段階は、もうとっくに過ぎているのだ。
 ストック調整原理についても、90年代から00年代にかけて、企業は設備、雇用、負債の「三つの過剰」を整理したが、その過程で企業の期待成長率と期待インフレ率が低下して定着し、1%弱の潜在成長率とデフレ(物価水準の持続的低下)が常態化してしまった。このためストック調整原理による回復は、力を欠いたものでしかない。

【長期的に消費税率引き上げ計画はあっても今実施すべきではない】
 では、現代の日本における正しい解決策は、どうあるべきであろうか。
 長期的に見て、消費税率の小刻み、段階的引き上げで少子高齢化に伴う社会保障費(年金、医療、介護、育児)の増加を賄う計画があって然るべきである。
 しかし、この計画に沿った消費増税は、マクロ経済のデフレ・ギャップが解消し、2%程度の実質成長率と1%程度のインフレ率が安定的に持続する状態になる迄、実施すべきではない。これ迄さまざまの角度から検討したことから明らかなように、いま消費増税の時期を先送りしても、日本の「ギリシャ化」は絶対に起きない。逆に供給超過の下で低成長とデフレが続いている現在の日本経済で大幅増税を実施すれば、経済はますます沈滞し、デフレは改まらないであろう。その結果税収は落ち込み、13兆円の赤字削減予算を実施した後の97~99年度の経験が示すように、財政赤字は逆に拡大するに違いない。


【財政拡張政策はクラウディング・アウトを起こさない】
 「流動性の罠」にはまった日本経済の現状では、積極的な財政拡張政策を行っても、民間の資金需要がクラウディング・アウトされることはない。もし市場金利が上昇してくるとすれば、それはクラウディング・アウトのためではなく、将来の成長率とインフレ率の期待が上昇してきたことの反映であり、持続的な成長とデフレ解消に向かう良い兆しである。国債のデフォルト・リスクが高まったからだと空騒ぎするのは、これ迄述べたことから明らかなように、事実無根で有害無益この上もない。
 持続的成長とデフレ解消を目指す拡張的財政計画を実施すれば、消費者、企業、市場の将来に対する期待が変わり、期待成長率と期待インフレ率の上昇に伴って消費・住宅支出、設備・在庫投資、株式投資は立ち直ってこよう。それが市場に反映されれば、金利上昇と株高の同時進行になる。
 この金利上昇は財政の利払い負担を増やすが、それによって「財政の基礎的収支」は悪化しない。金利上昇の背後にある経済の持続的成長とデフレ解消こそが税収を回復させ、「財政の基礎的収支」を改善する。

【いま何をなすべきか―財政拡張計画の中身】
 拡張的財政計画は、それが「呼び水」となって、民間が自信を取り戻し、民間が自分でリスクを取って成長志向の事業拡大に転じる「火付け役」となることが大切である。
 例えば、新しい技術を使った環境・エネルギー事業に民間が乗り出し易くなるような財政によるインフラ投資と支援、医療・介護・育児・農業に民間資本が進出し易くなるような規制緩和と財政支援、民間のビジネス・チャンスを提供する国有遊休資産の売却・官営事業の民営化、被災地における安全で斬新な地方都市建設を援けるインフラ投資と財政支援など沢山ある筈だ。
 これらの財政拡張政策を賄うために財政赤字が拡大し、国債残高が増えても、これ迄詳しく述べたように、「流動性の罠」が続いている限り、日本には何も問題は起こらない。成長率とインフレ率が高まり、それが持続するという「期待」が定着してきた時、はじめて市場の金利は上昇し、ゼロ金利は解消して「流動性の罠」が解ける。
 これが、今一番大切な戦略的目標である。この目標が達成された時、「財政の基礎的収支」ははっきりと改善傾向を示し始めるであろう。この段階で、長期的な消費税率引き上げ計画は、その改善テンポを補うため、始めて俎上にのぼって然るべきである。