円高とデフレが日本経済の構造転換を促し将来の発展方向を示す(H22.8.30)
【円高はバランスシート調整に悩む米国とEUのドル安・ユーロ安の反映】
目下の日本経済の最大の問題は、円高とデフレであり、この二つを止めない限り日本経済は発展できないというのが、政府・マスコミのコンセンサスのようにみえる。
しかし本当にそうであろうか。むしろ円高とデフレは、日本経済の構造転換を促し、将来の発展の方向を示す重要な現象ではないだろうか。
このHPの<最新コメント>“日銀に求めるべきは円高対策ではなく株価対策だ”(H22.8.29)で詳しく述べたように、米欧の不動産バブルの崩壊に伴う家計と金融機関のバランスシートの悪化により、米国とEUは現在バランスシートの調整過程にある。このため家計の消費と住宅投資の停滞、金融機関の信用収縮が起こっており、経済の先行き見通しの下方修正(米国)や二番底の懸念(EU)が生じている。日本にも1997〜2003年にこの問題があったが、今は解消した。
このような事情を反映して、経済の下振れリスクの強い米国のドルとEUのユーロが、日本の円に対して相対的に弱くなっている。これが目下の円高の基本的な原因である。
【円高でも日本の価格競争力は過去15年の平均並み】
この円高は、日本経済にとって致命的に不利な水準であろうか。
日本銀行の試算によると、現在の円の実質実効為替レートは、07年中頃の円安のボトムに比べれば30%の円高水準であるが、99年末の円高のピークに比べれば20%の円安水準であり、過去15年間の平均水準にほぼ等しい(前掲の<最新コメント>のグラフ参照)。
普段は対米ドルや対ユーロの「名目」為替レートをみているため気付かない人が多いが、日本の国内物価はデフレで下がっており、米欧の国内物価は持続的に上昇しているので、「名目」為替レートが横這いなら日本の国内企業の価格競争力は強まっていく。価格競争力が等しくなるのは、インフレ率・デフレ率の差を調整した「実質」為替レートが横這いの時だ。もっと正確に言えば、対米・対EUだけではなく、日本の全ての貿易相手国との「実質」為替レートを貿易ウェイトを用いて加重平均した「実質」「実効」為替レートが横這いの時だ。
従って、現在の円の実質実効為替レートが過去15年間の平均に等しいということは、現在の日本の国内企業の対外的な価格競争力は、過去15年間の平均と同じだということである。
【円高による製造業の海外シフトは良いこと】
しかし、平均的にはそうであっても、個々の製品や企業によっては、円高で価格競争力が失われているケースもあるだろう。
円高に対する輸出企業の一般的な対策は、生産性の向上によるコスト削減、輸出価格の引き上げ、輸出契約・決済の円建化、原材料・部品の輸入額と製品の輸出額を同額にする、などであろう。
これらの対策で対応しきれない場合には、対外直接投資による工場の海外シフトが実行される。円高は海外優良企業の買収や資本参加などM&Aを容易にすることも、これを支えている。
このような工場の海外シフトを、ステレオタイプのマスコミは「日本産業の空洞化」と表現する。
しかし、敢えて「空洞化」という言葉を使えば(実際は「グローバル化」であるが)、「空洞化」するのは製造業(日本経済の2割)であって、日本経済や日本産業ではない。製造業の雇用減少を埋める新しい雇用拡大が成長戦略産業で起こるので、日本の経済や産業に空洞化は生じない。
【円高を活用して国内の成長戦略産業を育てよう】
これからの世界と日本の産業構造を展望すると、製造業のウェイトは新興国・途上国で高まり、非製造業(通信、エネルギー、物流<空港・港湾を含む>、法務、医療、教育、娯楽、メディア、広告、小売、卸売など)のウェイトは先進国で高まる。
日本は円高を活用し、有利な対外直接投資を拡大して製造業を新興国・途上国にシフトさせるべきである。他方、新しい雇用を拡大する非製造業を発展させるため、上記カッコ内の業種を対象に、政府は規制緩和を進めて新規参入を促し、日本銀行はこれら成長戦略産業への低利融資制度を拡充すべきである。
円高は、これらの成長戦略産業に対しても有利に働く。優れた技術を持った海外企業の買収や資本参加による提携、海外からの技術の買い入れや機器類の購入などのコストが低下するからである。
【デフレ下でも企業収益は好転している】
以上のように、円高は製造業中心の古い産業構造から非製造業に属する成長戦略産業中心の新しい産業構造に転換する絶好の機会であるが、円高と共に進行している現在のデフレ(持続的な物価の下落)はどうとらえたら良いであろうか。
デフレが悪いのは、販売価格の下落や工場・事務所(の動産・不動産)の評価額低下によって企業収益が悪化し、雇用・賃金の悪化を招いて国民生活を圧迫するからである。
しかし、現実の企業収益をみると、デフレが続いた02〜07年度の6年間、企業収益は増加して売上高経常利益率(日銀短観)はバブル期のピークを上回った。リーマン・ショックで悪化したあとも、09年度下期から現在までの企業収益は急回復した。
このようなデフレ下の企業収益好転は、企業部門の産出価格(販売価格)の下落よりも、投入価格(人件費、輸入部品・原材料費)の下落の方が大きいからである。日本の雇用者報酬は97年度がピークで、その後今日までこの水準を回復していない。これは国民生活にとって大問題であるが、それが日本の企業の投入価格を産出出価格の下落以上に引き下げている主因である。
また最近では、円高による輸入部品・原材料の値下がりも、企業の投入価格の下落に寄与している。
【円高・デフレは非製造業と消費者にとって大きなメリット】
このように、円高は輸入部品・原材料の値下がりによって、デフレ(販売価格の持続的低下)の下でも企業収益の悪化を防いているが、非製造業と一般の国民(消費者)にとっては、円高メリットは更に大きい。何故なら非製造業と消費者は、いわば輸入産業であるからだ。
現在「円高還元セール」が広く行われているが、食料品、衣料品などの製品を輸入して販売する卸売業、小売業は、収益を維持したまま販売価格を下げている(デフレを進めている)。旅行業者が売り出す海外ツアーの料金引き下げについても同じだ。
このような円高のメリットを享受しているのは消費者だ。消費者は、海外旅行中にも安い買いものを楽しんでいる。円高還元のデフレのお陰で、消費者の実質購買力は多少とも回復している。
前述のように、現在の雇用者報酬は「名目」でみると97年度の水準を回復していないが、下表の通り、消費者物価で調整した「実質」でみると、06年度に1回回復し、最近は再びそれを上回ってピークを更新した。勿論これでも、国民生活の向上には不充分であるが・・・。
【貿易収支の黒字収縮を所得収支の黒字拡大が相殺する】
以上にように、円高とデフレを止めることが目下の最重要課題であるという政府とマスコミの認識は、輸出企業が困るという事実のみを誇張した見方であり、間違っている。これから発展させなければならない成長戦略産業と消費者(国民生活)にとって、現在の円高とデフレはメリットが大きい。
日本の産業構造において、これから製造業のウェイトが下がり、非製造業に属する成長戦略産業のウェイトが上がっていくと、輸出の伸びが落ち、輸入の伸びが高まって、貿易収支の黒字は減っていくであろう。
その代わり、海外シフトした製造業や新興国・途上国に進出した成長戦略産業が日本に送金する所得は増加し、「海外からの所得純受取」は拡大する。これは経常収支の一項目であるから、貿易収支の黒字縮小を所得収支の黒字拡大が穴埋めして、日本の経常収支の黒字は続くであろう。
【国内総生産GDPより国民総所得GNIが大切な指標】
国民所得統計でも、これからは実質国内総生産(GDP)だけをみていたのでは、日本経済の発展の姿は計れない。
円高傾向が続くことを前提とすれば、円建の輸入価格が円建の輸出価格よりも値下がりして、日本の交易条件は好転していく可能性が高い。
また上述のように、「海外からの所得純受取」も拡大していくであろう。
そうすれば、
国内総生産(GDP)+交易利得=国内総所得(GDI)
国内総生産(GDP)+交易利得+海外からの所得純受取=国民総所得(GNI)
であるから、これからはGDP以上にGDIやGNIが拡大していくであろう。
政府や国民も、国内総生産(GDP)ではなく、国民総所得(GNI)を日本経済、ひいては国民生活の基盤として、注目していかなければならない。政府のマクロ政策の戦略目標は、GDPからGNIに変わるべきである。