バブル崩壊後の長期停滞を予言した唯一のエコノミスト(H17.10.27)


─ 吉野俊彦さんを偲ぶ ─

【外側から見た吉野さんと内側から見た吉野さん】
   吉野俊彦さんが8月12日に90歳でお亡くなりになった。故人の遺志で近親者のみの密葬のあと、お別れ会も遠慮するとのこと。吉野さんは夏休みなどに軽井沢の別荘の書斎で鴎外研究を楽しまれていたが、その軽井沢にコブシの花がきれいに咲く真言宗のお寺があり、故人の希望でそのお寺の墓に納骨された由。
   新聞や雑誌などに多くの方が経済学博士吉野俊彦氏を偲ぶ追悼文を発表された。それらは、高度成長論者と論争した安定成長論者の吉野さんや、日銀エコノミストと二足のワラジを履いて鴎外研究に打ち込んだ吉野さんを偲ぶものが多い。
   しかし、私のように日銀エコノミストとして内側から吉野さんを慕い、吉野さんに学んだ者には、あまり外部の人には伺い知れない(あるいは外部の人は触れにくい)吉野さんの思い出が脳裏に焼き付いている。吉野さんを偲んで、これまでの追悼文ではあまり触れられていないようなことを二、三書いてみよう。

【良い調査部門を持たなければ一流の中央銀行にはなれない】
   一万田総裁は能吏タイプの実務家であった佐々木直さんとエコノミストの吉野俊彦さんのお二人を重用し、時には競わせたという。このため二人は対立するライバルの関係になった。一万田さんが去ったあとの日本銀行は、佐々木さんがプリンスとして、また副総裁、総裁として20年間程日本銀行をリードした。
   佐々木さんの系統の営業局と総務部(後に国際化が進むと前川春雄さん率いる外国局)以外は、政策の決定に殆ど関与できず、理事に昇進することもめったに無かった。吉野さんは孤立し、ますます外部の経済論争と鴎外研究に没頭しているかに見えた。
   しかしそれは上辺であって、吉野さんは調査局の復権に腐心して居られた。「良い調査部門を持たない中央銀行は一流の中央銀行ではない」。BISのエコノミスト会議で欧米先進国の中央銀行エコノミスト(その多くは政策決定の中心人物)と毎年接していた吉野さんが、私達後輩エコノミストに口癖のように言っていたことだ。

【吉野さんがレールを敷いた今日の日銀調査部門】
   吉野さんより3年先輩の前川春雄さん(後に総裁)と外山茂さん(調査局長、後に理事)が、吉野さんのよき理解者であった。外部から入って来られた宇佐美総裁も吉野さんを重用した。そして宇佐美さんの後を継がれた佐々木総裁は、宇佐美さんの遺言を尊重し、大蔵大臣に対して吉野さんを理事に推薦した。
   私は吉野さんの17年後輩であるが、調査部門一筋で来て理事になったのは、吉野さんの後、私にまで飛ぶ。このことからも分かるように、調査部門の復権にはその後も長い時間がかかった。
   しかし、吉野さんが敷いたレールの上を、後輩達は吉野さんの遺志をついで、黙々と歩んだ。総務・営業系と調査系の人事交流も活発になった。今日では理事(日銀出身者は6名)のうち、若い頃に調査部門で長く過ごしたエコノミストが2人居る。福井総裁自身は、総務・営業系であるが、それでも一時期調査局長としてエコノミストの勉強をした。金融研究所も創られ、日本銀行は良い調査部門を持つ中央銀行に変わった。

【歴史学派、制度学派の吉野さん】
   吉野さんは経済の現状分析にも優れていたが、金融経済史の専門家としては、日本で右に出る人は居なかった。
   近代経済学を勉強した私達後輩は、吉野さんの歴史的アプローチや制度論的アプローチよりも、機能論的アプローチを好んだ。それでも吉野さんはニコニコ笑いながら、私達の議論にもよく耳を傾けてくれた。ただ時折、過去の金融の歴史や制度の変遷を述べ、現代へのインプリケーションに注意を払うよう私達を指導された。

【資産価格の暴落が金融不安と長期経済停滞を招く】
   資産バブルが発生した1980年代後半、私は澄田総裁、三重野副総裁の下で、理事待遇金融研究所長、後に理事を務めたが、丸テーブル(理事会)や役員連絡会ではブラック・マンデー(1987年10月)後の日本の金融政策の在り方を真剣に議論した。タガの外れた銀行の貸出態度も頭痛の種であった。
   この頃の論壇で、第1次大戦後の経済ブームとその後の反動不況、昭和の金融恐慌の歴史と経験を語り、現状に警鐘を鳴らしていたエコノミストは、吉野俊彦さんただ一人であった。
   私達は、ドルを支えるために日本の金融緩和を続けないと、ドル暴落で世界恐慌が起きるのではないかというリスクの方を重く見ていた。実際、ブラック・マンデーの時は、本当にその恐怖におびえた。
   ドルが強くなってようやく日本の金融政策を引締めに転じた時はやれやれと思い、「土地神話」はこの程度の引締めでは崩れないであろうと殆どの人が考えた。
   あの時、吉野さんの言葉をもっと真剣に聞き、バブル崩壊後の金融不安のリスクをもっと確り勉強しておくべきであった。結果は吉野さんの警告通り、バランスシート不況で「失われた10年」に陥ってしまった。

【1日にビールを大ジョッキで9杯】
   最後に、吉野さんとの楽しい想い出を付け加えよう。
   1970年3月のBISエコノミスト会議に吉野調査局長(帰国後理事に昇進)が見えた時、ロンドン駐在参事付であった私は、随行して会議に出席した。
   最終日の土曜日に日本代表である吉野さんのプレゼンテーションが予定されていた。吉野さんは、英語を喋るには一杯やらないと舌が廻らないからと言ってバーゼル駅構内のスタンドへ行き、大ジョッキでビールを2杯飲み干して会場に赴いた。
   終わると、「良かったね鈴木君」と上機嫌で、昼食にまた大ジョッキで2杯飲んだ。無事終わったということで、秘書達におみやげ(絹のハンカチ)を買うために私を従えて散歩に出かけ、暑いと言ってまた大ジョッキで2杯飲んだ。
   夕食でまたビールを大ジョッキで飲み始めた時、そこ迄合計7杯お付き合いした私はさすがにビールが嫌になり、恐る恐るワインを飲んでよいか伺ったところ、ニコニコ笑いながら許して下さった。吉野さんはそこでまた3杯飲んだので、1日に合計9杯の大ジョッキを飲んだことになる。

【夜の会食を避けて家でビールを飲み、真夜中に鴎外研究】
   吉野さんは東京でも朝食にビールを飲んで、ツヤツヤした顔色で出勤して来られた。夕食にビールを飲んだ時にあまり旨く感じない時は、運動不足(その日に講演をしていないという意味)だと言って笑って居られた。
   吉野さんは寸暇を惜しんで勉強(家では主に鴎外研究)をして居られたので、夜ビールを飲んで眠くなった時はひと寝入りし、夜中に起きて朝まで勉強し、ビールで心気高揚した時はそのまま夜中まで勉強すると言って居られた。睡眠時間はかなり短くてすんだようだ。
   吉野さんは、「2号」と称する鴎外研究専門の書庫(「1号」は経済書がつまった書斎)で勉強するのが最高の楽しみだったようで、その時間を奪われるのを嫌って夜の宴会やパーティーには殆ど出席しなかった。

【各地の吉野ファンへ暖かい心遣い】
   例外は地方に講演旅行をした時で、旅先では夜の宴席を楽しんで居られた。話し上手で次から次へと面白い体験談を語るので、各地に吉野ファンのおかみさんや芸者衆が居た。
   海外出張にお供すると、朝、絵ハガキの束を渡される。各地のファンへの優しいサービスで、「外国で貴女の事を思い出した」という類のたわいのない事が書いてあるのだが、そこに切手を貼って出すのが私の朝一番の仕事であった。人生の機微を知り抜いた吉野さんの一面を見たような気がした。