不良債権処理の迷走(02.10.1)

−問われる「有言実行」−

【不良債権一掃が再び最優先の課題に】
 小泉首相は、昨年4月の政権発足に際し、不良債権を3年以内に処理することを、構造改革の最優先課題に掲げた。しかし、あれから1年半経った今日、不良債権は処理されるどころか逆に増えている。不良債権処理の政策的優先度は、小泉内閣の中で次第に落ちているかに見えた。
 事実内閣の中では、一方に公的資金をもう1回投入して不良債権の処理を急げという竹中経済財政担当大臣や、それに同調する塩川財務大臣が居るかと思えば、他方にその必要はないという柳沢金融担当大臣が居る有様で、不良債権処理を巡る方針は揺れに揺れ、迷走を続けてきた。
 そんな中で小泉首相は、「デフレ対策」の一環として、不良債権処理の「加速」を指示した。その上内閣の改造に当って担当の柳沢大臣を罷免し、竹中経済財政担当大臣に金融担当の兼務を命じたのである。不良債権処理は、再び小泉内閣の最優先課題に浮上したかに見える。

【銀行の業務純益を上回る不良債権の新規発生】
 しかし冷静に考えてみると、長引く経済停滞の結果、昨年中に新たに発生した不良債権の額が銀行の1年間の業務純益を上回っている。つまり利益を全額不良債権の処理(引当てや償却)に使っても、不良債権は増加するのである。
 このような状況では、仮に公的資金を投入して不良債権を一掃しても、翌年から再び不良債権が少なくとも銀行の利益を上回る分だけ発生するであろう。従って不良債権一掃の状態を続けようと思えば、毎年毎年限りなく公的資金を投入して行かなければならない。このような税金の垂れ流しをいつ迄も続けることは出来ない。
 従って、銀行の業務純益を上回る新しい不良債権が発生するような経済停滞を続けている限り、不良債権の一掃は不可能であるという結論になる。

【景気回復なくして不良債権処理なし】
 不良債権の一掃は、景気の立て直しと併行して実施しなければ不可能である。それなのに小泉政権は、どうして景気回復に軸足を移さず、ただ不良債権処理だけを急ごうとするのであろうか。
 二つの解釈が可能である。
 一つは、不良債権を減らさない限り、銀行はリスクを取って貸出を増やし、景気回復を促進する意志も能力も涌かないので、一掃は無理だとしても、とにかく不良債権を減らすのだ、という考え方である。しかし、翌年から再び利益を上回る不良債権が発生するような経済停滞の下で、銀行が手の平を返したように態度は改め、リスクを取って融資を積極化するであろうか。私はすこぶる疑問である。
 これは結局「不良債権処理なくして景気回復なし」か「景気回復なくして不良債権処理なし」か、鶏と玉子のような話である。しかしこの場合は、後者の方が正しい。
 財政政策や規制撤廃などによって景気を回復させながら不良債権を一掃するのが正しい選択なのである。従ってこの解釈からの帰結は、景気回復を重視しない小泉内閣には、不良債権一掃は不可能だということになる。

【査定の厳格化が不良債権増加の原因】
 もう一つの解釈は、不良債権の新規発生額が業務純益を上回るように見えるのは、金融庁による検査が厳しくなり、不良債権に査定される貸出が増えているからだという解釈である。つまり、新しく不良債権が発生しているのではなく、昔からあった不良債権で隠されていたものが暴かれ、新たな不良債権となったのだ、という訳である。
 この解釈が正しいとすれば、経済停滞で新たに発生している不良債権は業務純益の範囲内であるから、いまここで思い切って不良債権を一掃すれば、翌年から銀行は自分の利益で新たな不良債権を処理できる。従って不良債権一掃の状態が続き、銀行に元気が出てくることが期待されることになる。
 私はこの点を多くの銀行関係者に尋ねたが、人によって意見は分かれている。ここで百歩譲って、どうやらこの説は正しいとしよう。

【RCCが時価を上回る価格で買上げるのは不公平】
 そうすると、公的資金投入による不良債権の一掃は意味のある政策となる。
 不良債権を一掃するための公的資金の投入には、大きく分けて二つの方法がある。
 第一は、整理回収機構(RCC)が、時価よりも簿価に近い価格で大規模に不良債権を買上げることである。これは、買上げ価格と簿価の差額だけ、国が銀行に補助金を交付しているのと同じである。この補助金の国民負担は、RCCが買上げた不良債権を処理した時に発生する二次損失という形で現れる。
 しかしこのやり方では、多くの企業が自己努力の果に倒産している時に、銀行にだけ国民の負担で補助金を出すのは不公平だという批判が出るであろう。私もこのやり方は不公平であり反対である。
 さりとて、RCCが時価で買上げると言えば、銀行は損失の確定が嫌なので、これ迄通りあまり売って来ない。従って不良債権一掃の策にはなり得ない。

【引当金を厳格に積ませ公的資本を注入】
 もう一つの公的資金投入の方法は、銀行に対する公的資本の注入である。この方が適切であるが、それには三つの段階を経る必要があると思う。
 @まず金融庁の検査マニュアルを厳格化し、不良債権の貸倒れ引当金をもっと確かり積ませる。例えば現在は、要注意貸出のうち要管理は向う3年間のロス見込み、その他は向う1年間のロス見込みを引当金に積めばよいとしているが、これは甘過ぎる。将来にわたってのロス見込みの割引累計を全部引当金として積ませるべきである。そうすれば、不良債権のうちの要注意貸出が一掃されたことになる。
 Aこのような多額の引当金は、当然当期の業務純益だけでは足りないので、準備金などの自己資本を崩すことになる。その結果、自己資本比率は低下するので、各行は増資しなければならない。自力で市場調達できる銀行はそうすべきである。できない銀行には公的資本を注入する。
 私の感じでは、4大銀行グループのうち、自力で市場調達できるのは2グループぐらいではないかと思う。あとの銀行は、自己資本比率規制にひっかかるので、公的資本の注入を受けなければならなくなる。

【構造改革下の公的資本注入は「国有民営」】
 B公的資本の注入を受けた銀行では、国が巨大株主となるので、人事その他の株主総会決定事項には国のガバナンスが及ぶ。しかし、ひとたび経営責任者を選んだら、経営の内容には国がタッチせず、収益を挙げたかどうかの結果責任を次期株主総会で問うべきである。前回の金融健全化法に基づく公的資本の注入では、中小企業融資比率まで含む経営健全化計画を提出させ、金融庁がいちいちチェックしている。銀行のポートフォリオまで縛るようなこの行政介入は、行き過ぎである。
 今回の公的資本注入は、あくまで株主としてのガバナンスにとどめ、市場経済における経営の自主性を尊重して、収益力回復という結果責任だけを問うべきである。
 市場経済の自律性を尊重する構造改革の下では、公的資本注入の結果は「国有民営」であって、「国有国営」にしてはならない。行政の過剰介入を排除するのが、構造改革であるということを、決して忘れてはならない。
 「国営」やむなしという人は、構造改革の何たるかを理解していない人である。
 果して竹中新大臣の下で、小泉内閣はこのような適切な不良債権処理が出来るであろうか。また仮に出来たとして、翌年から再び不良債権が増え始めることにならないであろうか。
 正しい解決策は、やはり景気を回復させる構造改革に集中し、その努力と併行して前述の@AB段階の不良債権の処理を進めることである。景気回復なくして不良債権の一掃はありえない。