釈明後も残る森首相「神の国」発言の問題点(2000.5.27)
【誤解の余地のない間違いを含み撤回以外に解決の道はない】
去る5月15日(月)の神道政治連盟国会議員懇談会において、森首相は「日本の国は、まさに天皇を中心としている神の国である、ということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく、その思いでわれわれが活動して30年になった」と発言した。
その後、国会答弁ではいろいろと釈明を続けた挙げ句、5月26日(金)に40分間の特別記者会見を行い、「誤解を与えたことを深く反省する」と陳謝したが、「間違ったことは言っていない」ので、発言は撤回しないと明言した。
しかし、森首相の「神の国」発言は、以下の通り、誤解の余地のない「間違い」を少なくとも三つ含んでおり、この発言を撤回しないのであれば、日本の首相としての適格性に欠けると判断するほかはないと思う。記者会見の翌27日(土)の日経、朝日など主要紙の社説が、発言を撤回すべきだとしているのは、当然の反応である。
【天皇を象徴とする神の国では国家神道だ】
森首相は、「天皇を中心にしている」という部分と「神の国」とを切り離し、「天皇を中心にしている」とは、日本国憲法第1条の「天皇は日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」という意味であり、日本国憲法前文に明記されている主権在民の原則を否定するものではない、と釈明している。
しかし、それならば何故「神の国」の前に「天皇を中心にしている」という形容語を加えたのか。森首相の言う通りなら、天皇は「神の国」である日本国の象徴となってしまうので、まさに戦前のように天皇を「現人神(あらひとがみ)」とする極端な国家神道の思想に通じる。
戦後「人間宣言」をなさった天皇陛下は、日本国憲法を守って立派に象徴としての役割を果たしておられるのであり、森首相の「神の国」発言は、天皇陛下にとってご迷惑きわまりないものであろう。
森発言の文脈からみて、「天皇を中心としている」と「神の国」を切り離すのは無理であり、象徴天皇の意味だとする解釈は、ますます天皇と国家神道を結び付けてしまう。
この点一つ考えても、森首相は間違いを認め、発言を撤回すべきである。
【森首相はシャーマニズム的宗教観の持ち主】
次に森首相は、「神の国」とは国家神道のような特定の宗教を指したのではなく、「日本には山、川、海など自然の中に人間を超えるものを見るという考えがあることを言ったものだ」、「私達の命は神から授かったものだから大切にしなければいけない」と記者会見で述べた。
日本には古来、自然の中に人間を超えるものをみる「シャーマニズム」的宗教観が在り、それが神道と結び付いていることは事実である。その中で、命は神から授かったという考え方もある。
【森首相の宗教観を国民に押し付けるのは憲法の信教の自由に違反する】
しかし日本国憲法第20条には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と定められている。従って、森首相個人がシャーマニズム的な宗教観を持ったり、命は神から授かったと思うのは勝手であるが、それを「国民の皆さんにしっかりと承知していただく」と発言したことは、日本国憲法第20条の「信教の自由」に対する違反である。この点一つとっても、日本国首相の適格性を欠くと言わざるを得ない。
信教の自由は、無宗教の自由も含むのであるから、命を神から授かったという考え方も、首相が他人に強制してはならないのである。ましてやシャーマニズム的宗教観の押し付けは、憲法の保障する「信教の自由」に違反することは明らかである。
【「神の国」思想はアジア制覇の思想的根拠にも悪用された】
最後に「日本は神の国」という思想は、第2次大戦前の日本政府によって、「日本は神の国として最も優れた国家であるから、アジアを制覇し統括するのは当然」という偏狭なナショナリズムに利用された。戦前のドイツにおける「ゲルマン民族の優秀性」という思想がファシズムと結び付いて、ユダヤ人の大量虐殺を伴なう第2次大戦を起こしたことと共通している。
世界の人々は、この歴史的事実を決して忘れてはいない。とくにアジアの人々は、日本の国家神道、「日本は神の国」という思想が、太平洋戦争における日本の思想的根拠になったことを忘れてはいない。
このような歴史的事実に基づく国際的配慮が出来ないという点でも、森首相は日本の総理の適格性を欠いている。
【最後の審判を下すのは日本の選挙民】
以上、5月26日(金)の記者会見における釈明後にもなお残る森首相の「神の国」発言の問題点を三つ指摘した。自由党は他の野党と共に森首相の不信任案を衆議院に提出するが、数の論理で否決されるとすれば、最後の審判を下すのは来るべき総選挙における日本の選挙民以外にない。