超円安の背後に戦略的円安論 (1998.6.9)

【円安容認論に加速されて1ドル=141円台へ】
本日(6月9日)の朝、円相場は1ドル=141円台まで円安となった。91年6月以来の円安相場である。
円安の基本的要因は、言うまでもなく、92〜98年の7年間に及ぶ日本経済の停滞と、いまだに中期的回復の展望が開けない日本経済の現状の下で、国内に投資対象資産が乏しいため、国内資金の流出圧力が強く、また海外資金の流入圧力が弱いためである。
しかし今回の円安の直接の引金となったのは、米国のルービン財務長官が、「週末のG7蔵相代理会議では円安問題が取り上げられない」と述べたことだ。これによって、米国政府が円安を容認していると受け取られたのである。
さらに、最近欧米では、積極財政政策の採れない橋本政権の下では、裁量的・戦略的な円安容認政策が唯一の日本経済再建策だという議論が出ている。たとえば6月第1週のロンドン・エコノミスト誌は“Let the yen fal l”(円の下落を放置しよう)という題で、円安は日本にとってバッド・ニュースではなく、グッド・ニュースだ、と論じている。また私に対して、ロンドン・エコノミスト誌の記者がこの考え方についてコメントを求めてきたほか、『インターナショナル・エコノミー』という米国の雑誌から、このような円安容認論ないし戦略的円安論について、300字の原稿依頼があった。

【日本再建の戦略的円安論の根拠】
円安容認論ないし戦略的円安論の根拠は、エコノミスト誌によれば3つある。
第1に円安は、日本の国際競争力を高め、輸出数量を伸ばして内需不足を補い、景気回復に寄与する。
第2に円安は、輸入物価上昇を通じて国内物価を上げるので、実質債務残高や実質金利を下げ、資産デフレの圧力を軽減する。これはデフレ・スパイラルの危険性を和らげ、また不良債権に悩む銀行システムを救う。
第3に円安は、株式、土地などの外貨建資産価格を引下げるので、海外の優良企業、優良金融機関の資本参入を増やし、日本経済の体質強化に役立つ。
以上の3つの理由により、円安は日本経済の立直りを促すので、そのまま放置したほうがよい、と言うのがエコノミスト誌の結論である。

【円安でも日本経済の輸出は伸ばせない】
しかし、この円安容認論ないしは戦略的円安論には、いくつかの落とし穴があり、そのまま受け入れるわけには行かない。
第1に、東南アジア諸国はいまだに経済危機から立直れず、インドネシア、韓国などはマイナス成長に陥っており、他方米国も本年の成長鈍化は必至なので、たとえ円安が進んでも日本の輸出数量が増えるとは言い難い。現にアジア向け輸出金額は、本年に入って前年比マイナスとなっている。
第2に、円安に伴って日本からの輸出圧力が強まり、日本への輸入需要が弱まれば、東南ア経済の復興を阻げ、各国から非難されよう。また対米関係でも、日米の貿易不均衡が拡大し、新たな経済摩擦の火種となろう。従って、たとえ円安で国際競争力が高まっても、おいそれと輸出を伸ばせるような国際環境ではない。

【平価切下げ競争による金融・経済混乱の恐れ】
第3に、日本の円安が進めば、対日競争力を失って経済復興が難しくなるアジア諸国は、対抗上自国通貨を一段と切り下げるであろう。現に対ドル・欧州通貨で見た円安傾向にもかかわらず、円はアジア諸国の通貨に対して強くなっている。これは、既にアジアで平価切下げ競争が始まっている証拠である。このため日本の輸入物価は、対ドル円安下にもかかわらず上昇ではなく、下落している。これを反映して5月の国内卸売物価は、前年比2.3%も下落し、デフレ・スパイラルの脅威は去っていない。
第4に、円安が続いてアジア諸国の平価切下げ競争が進むと、94年に切下げて以来対ドル相場を維持している中国の元も、国際競争力の喪失から遂に切り下げに踏み切るかもしれない。そうなると、アジアにおける全面的な平価切下げ競争となり、貿易や資本取引が混乱し、金融危機が再発するかもしれない。
そうなると、その火付け役である日本の円安に対し、国際的非難が集中するであろう。

【円安による資産ダンピングは日本の損失】
最後に、円安が続くと、日本の株式や土地などの資産が、外貨建てでみて割安となり、外国の優良企業や優良金融機関の資本参入が容易になるというのはその通りであるが、これは一種の資産ダンピングである。長い目で見ると、日本にとって損な話である。
1ドル=141円という相場は、95年のピークから見て4割以上の円安であるし、購買力平価(110円台)からみても2割以上の円安である。どうみても円安はオーバー・シュートしている。従って、日本経済が立直るという展望がたてば、黙っていても海外資金が日本に大量に流入して来るであろう。いまこの段階で、海外の資本参入を促すために、円安を促して資産ダンピングをする必要などはない。日本経済の再建が先であり、海外の優良資本は後からついてくる。

【日本経済再興は正統的サプライサイド政策で】
以上の理由によって明らかなように、円安容認論ないし戦略的円安論は、世界経済と調和せず、日本にとっても不利であり、非現実的である。
日本経済の再興は、円安などに頼らず、このホーム・ページの5月21日付、22日付、28日付、などのWhat's New欄に書いたように、二段階アプローチで日本経済をサプライ・サイドから立直すことで実現すべきである。すなわち、今世紀中の3年間は経済再建最優先の期間とし、10兆円の法人・所得減税、不良債権の早期処理、規制緩和の徹底などを実施し、日本経済を実力相応の成長軌道に戻す。この過程で、円相場も購買力平価に向って円高傾向を辿るであろう。そして21世紀初頭の第2段階に、構造改革を完成させる。
円安容認論や戦略的円安論は、日本政府にこのような正統的再建策を採る能力がないとみた外国人の発想であり、日本人としては恥ずかしい議論である。